連載
#5 平成炎上史
「子猫殺し」から13年…… SNSが増幅させる「善意のバッシング」
ネット炎上を語る上で外せないテーマの一つに「善意のバッシング」がある。「○○がかわいそう」「○○するのは許せない」などの共感を土台にした「善意」が動機になっているが、結果として誹謗中傷や脅迫まがいの行為が横行する、いわゆる「集団リンチ」の様相になるのが特徴といえる。今からおよそ13年前の2006年に起こった「子猫殺し」を告白した作家をめぐる「炎上」はその先駆けともいえるものであった。作家の死後、明らかになった「意外な顛末」も含め、一連の騒動は、「感情の拡張」を制御できない私たちへの警鐘として生き続けている。
「子猫殺し」は、直木賞受賞作家として知られる坂東眞砂子が、日本経済新聞の夕刊「プロムナード」欄に週1回で連載していたエッセイが発端だった。
「私は子猫を殺している。家の隣の崖の下がちょうど空地になっているので、生れ落ちるや、そこに放り投げるのである」。当時住んでいたタヒチで飼っていた三匹の雌猫とその子猫の取扱いを通じた問題提起だった。
坂東が述べた理由はこうだ。
避妊手術は「本質的な生」を人間の都合で奪う面があり抵抗がある。しかしこれに異は唱えない。ただ、「避妊手術」と「生まれてすぐの子猫を殺すこと」は同じことだ。「子種を殺すか、できた子を殺すかの差」である。「どっちがいいとか、悪いとか、いえるものではない」。そもそも動物を飼うこと自体が、「人のわがままに根差した行為」であり、どこかで必ず矛盾や不合理が生じてくる。私は猫の「生」=生殖行為の充足を優先し、その「責任として子殺し(の方)を選択した」。
――という内容だった。
坂東は、文中で「人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。生まれた子を殺す権利もない」として、自分も「矛盾や不合理」の渦中にいることを明確に認めている。エッセイそのものが、広範な議論の提起を目的としたものであった。
しかし、結果として、そのメッセージは正確に伝わらなかったと言わざるを得ない。当時のネットの電子掲示板やブログなどの書き込みでは、一部で人間と動物の関係をめぐる活発なやりとりが行なわれたが、その多くは子猫を殺した著者の人間性を疑うといった人格否定へと傾いた。
「子猫殺しの変わった作家」というレッテル貼りである。週刊誌も興味本位で書き立て、扇情的な空気を作り出した。
つまり、議論のための材料を提供したと思ったら、材料そのものへの批判が殺到したというわけだ。
それは分かりやすくいえば「動物愛護」に対する共感の輪が、そのままバッシングの包囲網となっておそいかかったようなものであった。
心理学者のポール・ブルームは、このような「共感」に基づく関心が一つの物事に集中し、それ以外が見えなくなる現象を「スポットライトとしての共感」と呼んでいる。
著書『反共感論 社会はいかに判断を誤るか』(高橋洋訳、白揚社)では「スポットライト的な性質を持つ情動は、共感に限られない。怒り、罪悪感、恥、感謝の念などの情動も、共感に類似する」と主張している。
ブルームは、「共感」を2種類に分ける。「情動的共感」と「認知的共感」だ。
「情動的共感」は、無意識的なもので「他者の心の中で起こっていることを自分も感じること」。
「認知的共感」は、「他者の心の中で起こっていることを感情を差し挟まずに理解すること」である。
ブルームがとりわけ問題視するのは「情動的共感」だ。
普段の日常生活で身内などを思いやる分には害は少ないが、道徳的な課題や政治問題など公共政策を考える場面では害が大きくなるという。なぜなら前述した「スポットライト」の効果によって、問題の焦点そのものが狭まり、残りの暗がりにある様々な事情が見えにくくなるからである。
坂東のエッセイでは、「子猫を殺した」という部分だけに注目が集まり、そこに「情動的共感」でつながる人々が大量に生じたとみなすことができる。
「共感のスクラム」は「一つの動物虐待」という事件性にのみ固執する。そうなると、中立的な立場から突き放して分析することすら非難の対象になりかねず、自由な議論が委縮し、個人攻撃が野放しにされるようになる。
著者の元には呪詛に満ちたメールが多数寄せられ、コラムの担当デスクの名前がネット上でさらされ、新聞社主催の公開討論は中止に追い込まれることになった……。
当時はまだ電子掲示板やブログなどが主流(mixiがサービスを開始して約2年)だったが、現在では速報性と感情の連鎖を重視するソーシャルメディアによって、この「情動的共感」は化学反応のスピードを増し、ますます先鋭化する状況になっている。
いわば「情動的共感の泥沼」にはまり込むのである。その時、ソーシャルメディアは、わたしたちの「感情を劇的に拡張させる」方向に作用する。
もう一つ、現代に特有の重大な落とし穴がある。それは、「スポットライト」による効果と非常に似ている、ネットによる「特定の出来事の可視化」と、その結果として生まれる「目に入らない領域」の増大である。
確かにソーシャルメディアは、これまで表に出てこなかった「事件」を「可視化」するツールという面ある。
しかし、それは「可視化された特定の出来事」以外への興味や関心が抑えられ、言い換えると「目に入らない領域」が際限なく拡大していくことだ。
今年2月、散歩中の犬を飼い主である女性が足で蹴り上げる様子が映った動画が、Twitterに投稿されてネット炎上を誘発し、テレビ局が取り上げる「事件」にまで発展した。
もちろん動物虐待は決して許されるものではないが、もっと大きな視点で見れば、年間数万件に及ぶペットの殺処分の問題があり、その背後には飼い主による飼育放棄が存在している。さらに深く掘り下げると、「動物の権利」(アニマルライツ)や「動物福祉」(アニマルウェルフェア)という概念も考えなくてはならないだろう。
しかし、そのような根本的な解決が困難な重苦しい全体図よりも、衝撃性のある分かりやすいストーリーの方が好んで拡散され、あっという間に〝炎上ネタ〟として消費されることとなる。
まるで「この世の悪はネットによってすべて暴かれる」かのような錯覚が生まれやすくなると、ソーシャルメディアを一種の監視システムとして運用する傾向が強まり、「膨大な目に入らない現実」の存在を忘れさせてしまう。
ただでさえ情報で飽和している時代、人々は自分に必要な情報が何かを見分けることは難しい環境に置かれている。何が大事な情報なのか考える余裕がない中、この「情動的共感」とリンクした「可視化」の波、つまり、画面に表示される「わかりやすいストーリー(見世物)」をクリックしてしまいがちになっている。
「目に入らない領域の拡大」は、現実をも変えてしまう。
人間関係が希薄になった現代において、その空白を、ネット空間に生まれる間接的で手軽なリアリティで代替しがちになるからだ。
それは、広大なオフラインの領域があるという単純な話ではない。ソーシャルメディアでの滞留時間が増えると、コミュニケーションの密度が濃くなり、「情動的共感」と「可視化」が結合した特殊なリアリティが立ち上がってしまう。その結果、オンライン上に文字や画像として現れる一部の現実だけをもとにしたネットユーザーの主観的な社会像を再構成していくのである。
統計的には減っているにも関わらず、凶悪犯罪に対する過熱報道とソーシャルメディアによる過剰な情報共有により、「体感治安」が悪化して社会不安が増幅される現象が典型だ。
そのような人々がこぞってネット炎上に便乗すればするほど、社会的課題としてもっと熟慮しなければならない数々の「矛盾や不合理」を素通りしてしまう。それは脊髄反射的なリアクションの対極にある「引いて見る」「全体像を掴む」思考の停止を意味する。
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