連載
私がいじめ加害者を考え続ける理由 はるかぜちゃん×内藤瑛亮監督
いじめは、今も昔も大きな問題であり続けています、ただ、加害者側の心理は、あまり取り上げられない気がします。「悪い人のことは、考える必要がない」のでしょうか。加害者へのメッセージにこだわり続ける女優の春名風花さんと、加害者を描いた作品を制作中の映画監督・内藤瑛亮さんに、話を聞きました。
連載
いじめは、今も昔も大きな問題であり続けています、ただ、加害者側の心理は、あまり取り上げられない気がします。「悪い人のことは、考える必要がない」のでしょうか。加害者へのメッセージにこだわり続ける女優の春名風花さんと、加害者を描いた作品を制作中の映画監督・内藤瑛亮さんに、話を聞きました。
いじめは、今も昔も大きな問題であり続けています、ただ、加害者側の心理は、あまり取り上げられない気がします。「悪い人のことは、考える必要がない」のでしょうか。加害者へのメッセージにこだわり続ける女優の春名風花さんと、加害者を描いた作品を制作中の映画監督・内藤瑛亮さんに、話を聞きました。(朝日新聞デジタル編集部記者・原田朱美)
ツイッターで人気の「はるかぜちゃん」こと春名風花さんは、8月20日に絵本「いじめているきみへ」(朝日新聞出版)を発売します。2012年に当時12歳だった春名さんが朝日新聞に寄せたコラム「いじめている君へ」が大きな反響を呼びましたが、このコラムの絵本化です。
なぜ加害者にこだわるのでしょうか。
同じく加害者にこだわり続ける映画監督の内藤瑛亮さんと、対談してもらいました。
春名 「いじめられている子に声をかけることは、もちろん大事なんですけど、本当になんとかしようとしている第三者、つまり大人が入るとしたら、いじめる側をなんとかするべきだと思うんです。いじめる側がいるからいじめは起こるので。内藤監督は、ぼくが知る限りで、加害者側をよく描いてくださる信頼できる方だったので、お話ししてみたかったです」
内藤 「ありがとうございます」
内藤監督は、「ライチ☆光クラブ」「ミスミソウ」など、多くの商業映画を手がける一方で、実話をもとにした自主長編映画「先生を流産させる会」(2011年)が話題になり、議論を呼びました。
現在は、いじめで子どもを殺した子どもを描く2作目の自主映画「許された子どもたち」を制作中です。山形マット死事件(1993年)や川崎中1殺害事件(2015年)など、実際に起きたいじめによる子どもの死亡事件がモチーフだそうです。
内藤 「山形マット死事件は、ちょうど僕と同世代の子たちがいじめの加害者であり被害者だったので生々しく感じました。あの事件で加害者たちは、最初『僕たちがやりました』と自供したのに、その後やっていないと言い出した。それがさらにショックでした」
「なぜ一度は認めた事実を否定したのか。本当に加害者だとしたら、罪の意識をもっていたはずなのに、捨てたことになる。ひどい奴だというよりは、純粋に『どうして? どういう感情の流れでそうなったの?』と。フィクションの世界なら、彼ら加害者の内面に入って物語を展開することで、その疑問を紐解いていけると思ってつくった企画が『許された子どもたち』です」
――おふたりは、なぜ被害者ではなく、加害者に注目するんですか。
内藤 「僕は、明確にいじめられてはいなかったけど、プロレス技をかけられたり、パンツを下ろされそうになったり、ふざけていじられる存在でした。下手したらいじめられる側に転ぶという恐怖感がありました」
「一方で、僕以外に明確にいじめを受けている人はいて。その子にとったら僕は傍観者なわけです。『いじめを容認している加害者』と捉えることができます。『被害者的な側面もあるのに、加害者でもある自分』ってなんだろうと気になったのがひとつ」
「もうひとつは、どんな事件でも、加害者の方が気になるんです。被害者を描く方が共感を得られやすいからか、被害者側の話は多いです。加害者は、一面的なモンスターとされることが多いですよね。ただ、加害者がただのモンスターになっちゃうと、本質的な解決にならない」
「どうしてそういう人が生み出されたのかがわからないと、突然怪物のような悪いやつが生まれたことになる。現実はそうじゃないから難しいわけで。さっきの僕も、被害者であり加害者。残忍な事件の加害者も、実は自分に通じるところがあるんじゃないのかなと思うんです」
春名 「役者としても、被害者より加害者を演じることにひかれます。被害者は外的刺激によって被害者になるものであって、被害者になろうと思ってなるものじゃないじゃないですよね。でも加害者は、誰かを傷つけたいという欲求が生まれて加害行為に及ぶから、自分の中で起きること。そこにたどり着くまでの心理が複雑です」
――加害者を「問答無用に悪。自分とは違う、悪い人」と割り切る人も少なくありません。
内藤 「白黒つけた方がラクというのはあると思う。あいつは真っ黒な悪い奴だから、考える必要はないと。白黒つけられない状況ってモヤモヤするし、すごく不安になるので、SNSでも白黒をはっきりつけて断定する表現のほうが支持されますよね。映画や物語は、その白と黒の間を描くものだと思っています。白と黒の間は何色なんだろうと想像させることが大事だと思います」
――春名さんは、2012年に加害者へのメッセージ「いじめている君へ」を書き、大きな話題になりました。
春名 「加害者に対するメッセージって、『いじめは犯罪なんだ』っていう声が当時も多かったんですけど、それだけで抑止力になるのかなという気持ちがあって。ぼくは、その子の心理を理解したうえで、被害者のことを想像してほしいなと思って書きました」
内藤 「僕も当時、春名さんの文章を読んで、いじめた側にメッセージを書いたということに驚きました。いじめられている側にメッセージを投げる方が数として多いし、ある種容易なのかなと思います。被害者側にかける言葉は、『そうだよね』っていう読者の共感も得やすい」
「一方で、加害者側にかける言葉って、何が正解なのか分かりづらいし、万人が納得するこたえも難しい。いじめに限らず、日本社会全体として、加害者について考えることに慣れてないよなあと、読みながら感じました」
――内藤監督は、加害者を撮ってみて、加害者に対する認識は変わりましたか?
内藤 「いまの加害者へのバッシングって、住所や個人情報を特定して、生活を奪おうとするのがあるじゃないですか。生活の基盤を脅かされてくると、贖罪(しょくざい)について考える余裕がなくなるなと思いました」
「過剰なバッシングを受けながら生活をしている場面の撮影で『被害者についてどう思いますか』と加害者家族役の役者さんとディスカッションしたら、『バッシングから身を守って生活するのに精一杯で、被害者のことを考えられない』と言っていました。加害者側の親は職を奪われることが多いし、子どもと向き合う精神的・物理的余裕もなくなって、子どもも行き場がなくなる」
春名 「加害者は、相手が死んでも実感が湧くのはだいぶ後で、もしかしたら一生わかないかもしれない。感覚として想像するなら、友だちから借りた鉛筆を壊してしまって、弁償するよと言ったけれど、お金を払うのを忘れていた、みたいなこと」
「ただ、問題の重さがわかってないというのとはちょっと違うと思います。わかりたくないのかなと。自分が悪い奴だと思うのってすごく勇気がいること。だから、誰かに責任をなすりつけたり、自分がしたことはそこまで悪いことではないと思い込んだりする」
「少年法であんまり罰されないのは良くないという意見があるけれど、ぼくは生きることが、その人にとっての一番の罰なんじゃないかと思っています。被害者の心情を考えたら、『死んで』となるのはわかるんですけど」
内藤 「例えば加害者の背景に配慮したり、加害者家族支援の必要性について意見したりすると、『被害者の家族だったらそんなこと言えないでしょ』って批判が起こりますよね。それってすごくズルい逃げ口だなと思っていて」
「もちろん被害者側の家族だったらそんなに冷静に考えられない。だけど第三者だからこそ感情に振り回されずに、問題の解決策を冷静に判断できるはずです。第三者なのに被害者側の立場にのっかって、加害者やその家族を過剰にバッシングするのは、身勝手なストレス発散になるだけじゃないかって思うんです。本質的に被害者を思いやった行動ではないですし」
内藤 「知り合いが以前、ひどい犯罪をやって逮捕されたんですよ。けっこう仲の良いグループのメンバーだったので、あいつとどう付き合っていこうか、みんなで話し合って、友だちとしてはつき合いを続けようと。今はもう裁判も終わって、法的な意味では社会的制裁は終わっています」
「でもそいつと話していると、モヤモヤするんですよね。ちゃんと贖罪の気持ちがあるのか、と。犯罪行為を悔いて、被害者に申し訳ないってことは言っているんですが、それを言葉にしたとしても釈然としなくて、むしろムカつく気持ちもあって。どうすればこの人が『ちゃんと罪滅ぼしをした』と思えるのかなって考えたけれど、わからなくて」
――それは難しい問題ですね。
内藤 自分の親にそれを話したら、『あんたは偽善的すぎる。その人に石とかぶつけた方がいいんじゃないの』って言われて。それが一般的な反応だと思うし、石をぶつけたい気持ちも理解はできる。一方でその処罰感情も怖いなと思うんです。石をぶつけると、罰を与えた感はあるけれど、それで得るものってなんなんだろう」
「僕の親は被害者と直接関係のない第三者です。石を投げてスッキリしても、石を投げられた加害者は逆恨みするだけで贖罪に結びつかないし、被害者が救われる訳でもない。贖罪って簡単にできないけれど、かといって第三者が過剰に処罰を求めたとしても、結局それはその人の自己満足だよなと」
春名 「ぼくが以前出た舞台で、死刑囚が集められたマンションのお話があります。マンション内の様子は全国にライブ配信されていて、配信を見ている人が『こいつを殺したいな』と思った瞬間に死刑が執行されるという設定です」
「ぼくがやった役は『どうしたらまともな人間になれる?生きたい!生きたい!生きたい!』と言った瞬間に執行ボタンが押される役でした。罰を与えるなら、こういう罰が一番残酷なんだろうけど、ただそれは、加害者が被害者にしたことと同じでもある。こういう問題ってどう考えても終わりはなくて、いろんな立場から見て、いろんな立場からの正解を見つけるのがいいのかなと思います」
――お二人とも「加害者は悪、自分とは違う人」と決めつけずに、考え続けています。それはエネルギーがいることで、しんどいという人もいます。
内藤 「そうですね。しんどいと思います。だから決めつけた方がラクだと思うんですけど、一方的に決めつけてバッシングしている人に嫌悪感があります。人として、そうはなりたくないな、そういう人と友だちになりたくないな、という」
「バッシングって、ひっくり返ったらこっちにもくるし、自分の親しい人にもくるかもしれないし。いじめられっ子って急にひっくり返ることがあるし。だから苦しいけど白黒つけられない道に進んでいった方が、自分としては正しい道を歩んでいると思えるなと」
内藤 「川崎の中一殺害事件も、加害者グループのリーダーは、昔いじめられっ子でした。傍聴記録を読んでみたら、リーダーが一番被害者を切りつけているんですが、他の少年から『お前リーダーだったらもっとやれよ』とけしかけられているように読み取れるんです」
「絶対的なリーダーというより、リーダーという立場を演じなければと追い込まれていた。事件発生直後は、『凶悪な主犯少年』と決めつけがあったし、僕も当時そう思っていたんですけど、記録を読んでみると、少年グループの関係性はもっと複雑だったんだなと」
春名 「考え続けることはエネルギーがいるし、自分の中にひとつ正解を作ってしまった方がラクだとは思うんですけど、正解がないわけでもなくて。自分という視点を手に入れたからこそこうして考え続けられるのかなとも思います」
――自分の価値観はしっかりしている、ということですか?
春名 「そうですね。どんな状況であれ人を殺すのはよくないという自分の価値観がしっかりあった上で、この殺人は何なのかを考える、とか。罪は罪という結論はあるうえで、そこにいたるルートをあれこれ考えるという感じ。ぼくは、そこを考えるのはあまり苦じゃないですね」
「加害者を考え続ける」という点について、お二人の姿勢は、よく似ていました。
白でも黒でもないもの。それはある意味、人間そのものかもしれません。
1/28枚