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不可解な判定に泣いた夜 村田諒太が仲間に語った「前を向く言葉」
10月22日夜。世界ボクシング協会(WBA)ミドル級タイトルマッチを制し、新王者となった村田諒太選手(31=帝拳)が、かけつけた場所があります。東京都内のバー。集まっていたのは、母校・南京都高(現京都廣学館高)のボクシング部OBたちでした。(朝日新聞東京本社スポーツ部・伊藤雅哉)
さかのぼること5カ月前の5月20日。
東京・有明コロシアムであったWBAミドル級王座決定戦で、村田選手はアッサン・エンダム選手(フランス)から4回に右ストレートでダウンを奪いながら、1-2の判定で敗れました。2012年のロンドン五輪金メダリストにとって、プロ13戦目の初黒星でした。
試合会場の一角に陣取っていた南京都高ボクシング部OBら約100人は、祝勝会のため都内の店を予約していました。それがまさかの残念会に。帰る気にもならないので、午後10時半頃から飲み始めました。
村田選手の人柄にほれ込み、後援会長を務める近藤太郎さん(42)が一人ずつに試合の感想を求めました。「あの判定はないわ」「村田がかわいそうや」「またやるなら絶対応援に来る」。そんな声が続いていた時、近藤さんの携帯電話に村田選手から着信がありました。
「カトウです」
共通の知人の話し方をマネしていましたが、紛れもなく村田選手の声でした。近藤さんとの間の、いつものジョークでした。
そして、「何時になっても行きます。飲んで待っといてください」と言いました。村田選手が到着したのは日付が変わる頃。激戦の直後で顔は赤く、さすがに疲れ切っていたそうです。
奈良・伏見中時代の村田選手は荒れていました。
離婚した両親への反発もあり、陸上部はすぐにやめてしまい、髪を金色に染めたこともありました。3年の時は学校も休みがちになり、プロのジムに通ってボクシングを始めました。
素質を見込まれ、強豪の南京都高に入学。集団生活にどっぷりつかるのはボクシング部が初めての経験で、だからこそ当時の仲間への思いは強いのです。
高校時代、大会前は校内に泊まり込んで、3週間に及ぶ合宿をしました。練習でへとへとになっても、夜は全員で一発芸を披露し合いました。
今でこそスマートな標準語を話しますが、東洋大進学のため上京する18歳までは関西育ち。素顔の村田選手は、そんな「関西人のノリ」が大好きなのです。
監督だった武元前川さん(故人)からは、技術よりも「筋を通せ」「人の痛みを知れ」と教えられました。金メダルを取って有名になってからも、OBの集まりのたびに京都に帰っていたのです。
エンダムに負けた夜。近藤さんは「仲間内だから、あの判定に文句の一つも言っていいだろう」と思いました。
「あれはどうなん?」と聞いてみましたが、村田選手はかたくなに何も言いませんでした。その代わり、オーストリアの心理学者ビクトール・フランクルの言葉をすらすらと口にしました。
「人生に意味を求めてはいけない。人生の問いかけに応えていくのだ」
村田選手はプロに転向したばかりの頃、五輪金メダリストの重圧に苦み、哲学書を読みあさった時期がありました。その中で見つけた、人生訓といえる言葉でした。
「起こったことを受け入れて、自分に何ができるのかを考える」という意味です。村田選手はもう、前を向いていました。
最後にあいさつした近藤さんは、元世界4階級王者のパーネル・ウィテカー選手(アメリカ)の名前を出しました。
1984年のロサンゼルス五輪金メダリスト。プロでも偉大な王者になりましたが、世界初挑戦は微妙な判定負けでした。村田選手と重なる部分があり、勇気づけたいと思って練ったあいさつでした。
話の終わりに、近藤さんは村田のほうをちらりと見ました。
あなたの言いたいことは分かっていますよ、という顔で、「村田はニヤニヤ笑ってました」。
10月22日も、近藤さんたちは東京・両国国技館に駆けつけました。村田選手がエンダム選手との再戦に勝って涙する姿を、その目で見届けました。もちろん、この夜も祝勝会の準備はしていました。
村田選手は関係各所へのあいさつ回りを終え、最後に仲間たちの元に駆けつけました。
最後は恒例の、母校の校歌を大合唱。宴は午前3時まで続きました。
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