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こんにゃくと和紙でできた“決戦兵器” 本当はもっと「凶悪」だった

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直径10メートルの気球に爆弾を吊るし、アメリカ本土まで飛ばす“決戦兵器”。その製造を担ったのは10代の少女たちだった――。神奈川県川崎市にある明治大学平和教育登戸研究所資料館で「風船爆弾」と呼ばれる兵器にまつわる企画展が開かれています。展示の見どころについて聞きました。(朝日新聞福山支局・武田啓亮)
水素ガスで満たした直径10メートルの気球で、15キロ爆弾と焼夷弾2発をアメリカ本土まで飛ばす。
太平洋戦争末期に開発・製造されたこの兵器は「ふ号兵器」と呼ばれ、「風船爆弾」という通称でも知られています。
1944年末~45年春にかけて、千葉県一宮、福島県勿来、茨城県大津の3カ所から、計約9300発が放たれました。
偏西風に乗って、約1割ほどがアメリカの西海岸へ到達したとされています。
気圧計と連動して自動でおもりを投下して高度を調整するなど、当時としては画期的な機構も組み込まれており、陸軍からは“決戦兵器”として期待されていました。
明治大学生田キャンパス内にある登戸研究所資料館で、この兵器に関する企画展が開かれています。
かつてこの場所には、陸軍の研究所があり、風船爆弾を含む、様々な兵器を研究・開発していました。
資料館の建物は、その時代のものを活用しているそうです。
館内に展示されている10分の1サイズの風船爆弾の模型をみると、人間と比べたときの巨大さがよく分かります。
「本来であれば気球にはゴムを使うのですが、貴重な軍需物資であるゴムの代わりに、和紙が使われました」
館長で明治大学教授(史学)の山田朗さんが解説してくれました。
会場には、当時の製造方法で加工した和紙が展示されていて、実際に触ることもできます。
和紙を重ね合わせただけの段階では、ごわごわとした感触が強く、とてもゴムの代わりにはなりそうもありません。
その後、薬品で複数回処理をしたものを触ってみると、格段にしなやかさが増しているのが分かります。
「加工した和紙をこんにゃくから作ったのりで貼り合わせて、巨大な気球を作ります。少しでも和紙に隙間があったり空気が入り込んだりすればやり直しですから、大変な作業だったと思います」
アメリカのオレゴン州で民間人6人が亡くなるなど、風船爆弾は実際に被害をもたらしたことが分かっています。
とはいえ、風船爆弾が搭載できる爆弾の量は少なく、アメリカ本土に与えた被害も、日本が空襲で受けた被害に比べると、あまりにも小規模です。
決戦兵器という仰々しい響きからは、実態がかけ離れている印象を受けます。
山田さんは「風船爆弾は『苦し紛れ』の『チープな兵器』という扱われ方をされることも多いですが、それは結果論です。もしも当初の計画通りの姿で使用されていたら、もっと恐ろしい事になっていたでしょう」と語ります。
実は、初期の計画では、風船爆弾には細菌兵器が搭載される予定でした。
「ペスト菌を持ったノミをばらまくことが想定されていました。細菌兵器であれば、わずか数十キロの搭載量でも脅威になります。残された資料から、細菌戦を展開したとされる731部隊も計画に関与していたとみられることが分かっています」
ただ、この計画はすぐに頓挫したそうです。
「風船爆弾が飛ぶ高度1万メートルでは、氷点下50℃という低温でノミが死んでしまうことが分かり、断念されました」
代わりに検討されたのが、牛を死に至らしめる牛疫ウィルスでした。
「アメリカの畜産業に打撃を与え、食料供給を混乱させるという狙いがあったようです。実際に屋外で牛に感染させる非常に危険な実験を行い、成功させていたようです」
しかし、これも実行に移されることはありませんでした。
「この頃にはかなり戦況が悪化しており、細菌兵器を使用すれば、アメリカから報復があるのではないかと恐れたようです。裏を返せば、自分が勝てると確信している時、人間は残酷なことでもやってしまえるということでもあります」
日本国内にも、風船爆弾の「被害者」たちがいました。
「入学したばかりなのに英語の授業がなくなって残念」「学校の制服が、憧れていたセーラー服ではなく、日本全国一緒の『標準服』になってしまった」
会場には、戦時中に学校生活を送った、女学生たちの証言が展示されています。
戦争が日常生活に落とす影を、少女の感性でとらえたものが印象的です。
「風船爆弾の製造が命じられてから作戦が始まるまでの半年足らずの間に、約5千個の気球を製造する必要がありました。その中心を担ったのが、高等女学校の女学生たちでした」
製造作業への動員で、学校の授業は一切なくなりました。
作業は学校の授業時間を丸々あてることもあれば、さらに長時間、12時間ごとの交代で、深夜から明け方まで作業に従事するというケースも珍しくなかったそうです。
「一応、賃金は払われたようですが、月40~50円ほどと、労働時間や内容に見合ったものではありませんでした。現在の貨幣価値に換算すると時給100円ほどになる計算ですから、かなりブラックな労働条件です。また、本人に直接渡すのではなく、学校ごとにまとめての支払いだったため、『報酬を受け取った記憶が無い』という方もいたようです」
当時の工場法でも、女性や年少者を長時間働かせることは違法でしたが、不足する労働力を補うために、戦時特例として規制緩和が行われていました。
「問題に直面した際に、ルールや基準の方を変えてしまう。現代の政治にも通じる部分があると思います」と山田さんは指摘します。
1時間ほどの取材の間も、会場は多くの見学者でにぎわっていました。
「今年は戦後80年ということもあってか、関心の高まりを感じます。昨年賞を受賞した、風船爆弾を題材にした小林エリカさんの小説『女の子たち風船爆弾をつくる』の影響もあるようで、若い世代もじわじわ増えている印象です」
企画展は5月末までですが、山田さんによると、盛況のため期間の延長も検討しているとのこと。
「戦争が私たち市民の生活に何をもたらすか。それはいつの時代も変わりません。少女たちの視点を通じて、自分自身に引きつけて考えてくれたのであれば嬉しいです」
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