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戦艦大和、なぜ無謀な作戦へ?軍がこだわった〝一撃〟沈没から80年

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4月7日、日本海軍が建造した史上最大の戦艦「大和」が鹿児島県坊ノ岬沖で沈没してから、80年を迎えました。大和はなぜ、3千人以上の乗組員とともに、無謀な作戦で最期を迎えることになってしまったのでしょうか。80年前の悲劇を振り返りながら、今の私たちが学ぶべき教訓はなにか、考えてみました。(朝日新聞福山支局・武田啓亮)
全長263メートル、満載排水量7万2800トン。46センチ砲9門を搭載したその姿は、まるで海に浮かぶ要塞のよう。
かつて、プラモデルやゲームに登場する「戦艦大和」に夢中になった人も多いのではないでしょうか。記者(32)もそのひとりでした。
しかし実際の戦艦大和がたどったのは、無謀な作戦からの悲劇の最期でした。
沖縄への“水上特攻”の途中で、大和は沈没。
乗員3332人のうち3056人が戦死し、生還者は1割もいませんでした。
「軍人はもうお父さんのものでもなければ、お母さんのものでもない。国家のものだ」
大和の乗組員の一人、臼淵(うすぶち)磐(いわお)さんが、1歳下の妹・汎子(ひろこ)さんに送った手紙には、こんな言葉が書かれていました。
1942年秋に兵学校を卒業した臼淵さんは、44年秋に大和の副砲分隊長に着任します。
そして、45年4月7日、大和と運命をともにすることになりました。
戦没時の階級は大尉、21歳でした。
大和型戦艦は1941年12月16日に1番艦「大和」が就役。同型の2番艦「武蔵」も建造されました。
数で勝る米海軍に対し、質で優位を得るために、世界最大の46センチ砲を搭載し、艦の重要な部分には、その砲弾の直撃にも耐えられる装甲が施されていました。
当時の日本の技術の粋を集めて建造された大和ですが、その最期は悲惨なものでした。
1945年3月26日、沖縄に侵攻してきた米軍を迎え撃つため、日本海軍は「天一号作戦」を発動します。
「沖縄西方海面に突入、敵水上艦艇並びに輸送船団を攻撃撃滅すべし」
すでに戦局は敗戦濃厚となる中、大和に下された出撃命令は、成功の見込みのない水上特攻でした。
水上の敵艦との戦闘後は、艦を座礁させて砲台として使い、乗組員は上陸して戦う計画だったと言われています。
奇跡的に突入に成功したとしても、生還の可能性は限りなく低い作戦でした。
味方航空機による援護もほとんどないまま、僚艦9隻とともに沖縄へと向かった大和。
4月7日正午すぎ、米軍機からの猛攻が始まり、無数の爆弾や魚雷が大和を襲いました。
2時間ほどの戦闘で、沖縄にたどり着くことなく、大和を含む6隻が沈没、4千人あまりが戦死しました。
なぜ、こんな無謀な作戦が実行されてしまったのでしょうか。
日本近現代史が専門の、埼玉大教養学部教授の一ノ瀬俊也さんは「米軍に人的被害を与えることで米国内の世論を動かし、少しでも有利な条件で講和に持ち込もうという発想が背景にあった」と指摘します。
「無条件降伏では、天皇制を守れないかもしれない。軍の上層部も責任を問われる。それを避けるために、最後まで『一撃』を与えることにこだわったのです」
しかし、軍の姿勢も一貫したものではなかったようです。
「海軍が沖縄戦を『最後の戦い』と位置づける一方で、陸軍は本土決戦に向けた『時間稼ぎ』と考えていた節があります。また、海軍でも、大和が航空機の援護無しで沖縄に向かう一方、沖縄戦では多くの航空機が特攻に投入されていました。この連携の取れていないちぐはぐな行動を見ても、ずさんな作戦であったと言わざるをえません」
軍艦には、高速で使い勝手のよい駆逐艦や、多数の航空機を運用する航空母艦、隠密行動が得意な潜水艦など、様々な種類があります。
大和をはじめとした戦艦は、強力な大砲で敵の船を沈めることを目的とした軍艦でした。
航空機が急速に発展していった時代、戦艦である大和は生まれた時点で「時代遅れ」の存在だった――。そんな評価をされることもあります。
記者はこの評価について、一定程度はうなずけるものがあると感じる一方、完全には同意できないとも思ってきました。
戦艦大和が就役したのは開戦後まもない1941年12月半ばごろ。対するアメリカ海軍では1943年からアイオワ級戦艦が順次就役するなど、大和の就役以降も新型戦艦を戦場に投入しています。
そして、アメリカは戦艦を敵艦との戦闘だけでなく、陸上への艦砲射撃などにも活用しているのです。
日本も、旧式の戦艦は同様の任務に投入していました。
大和の存在そのものが時代遅れというよりも、上手く運用できなかったのではないか。そんな疑問を一ノ瀬さんにぶつけると、一ノ瀬さんは「当時はどの国も、新しい技術である航空機の活用と、従来からの主力である戦艦の建造を両にらみで進めていました。大和を建造した日本だけが『時代遅れ』であったとは言えないと思います」と指摘します。
そして「日露戦争時、日本海海戦で勝利した経験から、日本海軍は『艦隊決戦』を重視する傾向にありました。そのため、大和を切り札として温存しすぎてしまった側面はあると思います」と語ります。
互いに主力艦同士をぶつけ合う、大規模な海戦で戦争の決着をつける――。この考え方に固執した結果、様々なところにゆがみが現れました。
「敵の潜水艦などへの警戒がおろそかになった結果、多数の輸送船が沈められて戦地への補給線が崩壊したというのは、よく指摘されています。大戦末期には日本も対策に力を入れるのですが、すでに戦況は取り返しがつかない状態になっていました」
海軍内部でも「突入を企図しても途中において壊滅は必至」「成功の可能性は皆無」などと、大和の特攻に反対する声は少なからずあったと言われています。
一方で、軍上層部から大和に対し「一億総特攻のさきがけになってもらいたい」という趣旨の発言があったという証言もあります。
戦後、防衛庁(現在の防衛省)がまとめた「戦史叢書(そうしょ)」でも「海上特攻隊に関する経緯については、明確なことを知ることができない」とされていて、実行にいたる判断については、はっきりとしていません。
一ノ瀬さんは「誰も責任を取ろうとせず、ずるずると惰性で物事が進んでいく。日本的な組織が持つ負の側面であり、現代にも通じる課題ではないでしょうか」と指摘します。
背景には、戦前から続く、日本軍の体質的な問題もあると言います。
「問題の根は、日露戦争に勝った時にまでさかのぼるかもしれません。海軍は艦隊決戦での勝利という成功体験にとらわれ、陸軍では非合理的な精神論が幅をきかせるようになってしまいました」
一ノ瀬さんは大和について、こう評します。
「悲しい歴史の象徴であり、近代日本の姿そのものに感じます。貧しい国家が軍事力で諸外国を圧倒しようとして、多大な犠牲を払うことになった。私たちが学ぶべき教訓は多いと思います」
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