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奇跡的に焼け残った創業93年の食堂「戦後も大変だった」女将の思い

下町で90年以上愛されてきた食堂。今は休業中だそうです。
下町で90年以上愛されてきた食堂。今は休業中だそうです。

目次

下町の一角に、創業93年の小さな食堂があります。お店を切り盛りするのは、93歳の女将です。東京大空襲でも奇跡的に被害を免れ、レトロな雰囲気から「闇金ウシジマくん」などのロケ地にもなり、「聖地巡礼」するお客さんもいるそうです。今年は戦後80年。「今はいい時代」と話す女将に、これまでを振り返ってもらいました。(朝日新聞デジタル企画報道部・武田啓亮)

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両国で93年

都営大江戸線両国駅から、両国国技館の方向に向かって5分ほど歩くと、2階建ての小さな建物が目に入ります。

入り口に「下総屋(しもふさや)食堂」と掲げられた看板の文字のうち、「下」の字は外れてしまっています。

ここが、ドラマ「闇金ウシジマくん」では主人公の行きつけとしてロケ地になっていた創業93年の食堂です。

国技館のすぐ近くに食堂はあります。店名の看板が一部外れてしまっています。
国技館のすぐ近くに食堂はあります。店名の看板が一部外れてしまっています。

もともとは2代目女将の宮岡恵美子さん(93)と夫の昭馬(てるま)さんの2人で営業していた店で、6年前に昭馬さんが亡くなった後も、恵美子さんが切り盛りしてきました。

店内の棚には「東京都指定民生食堂」と書かれた看板がぶら下がっています。

食器棚にならんだおもちゃ類にも、独特の雰囲気を感じます
食器棚にならんだおもちゃ類にも、独特の雰囲気を感じます

民生食堂とは、外食に頼りがちな労働者や単身世帯などが、手頃な価格で栄養のある食事を取れるようにするための都の制度で、1969年ごろまで存在していたそうです。

「昔は都内に何百軒もあったけれど、今も残っている食堂は少ないですね」

民生食堂制度がなくなった後も、焼き魚300円、ご飯とみそ汁のセットが200円など、手頃な価格で営業を続け、今年で創業93年を迎えました。

壁に並ぶメニューが書かれた札。納豆やおひたしなどは200円だそうです
壁に並ぶメニューが書かれた札。納豆やおひたしなどは200円だそうです

ガラス棚に並んだおかずから好きなものを取っていく独特の注文スタイルは、創業当時から続いているそうです。

「食堂の創業は1932年だけど、建物は1923年からあるんですよ。東京大空襲でも、ここは焼けずにすんだの。向島や本所のあたりは全部焼けてしまったから、本当に奇跡的だったみたい」

下町が燃えた夜

1945年3月10日、米陸軍の戦略爆撃機・B29約300機が東京の上空に飛来しました。

1機あたり約9トンの積載能力があるB29の爆弾倉には、ゼリー状の燃料が詰まった焼夷弾(しょういだん)が満載されていました。

この焼夷弾は地上に落ちると、火が着いた状態の燃料を周囲にまき散らし、消火は困難だったと言われています。

紙と木で出来た日本の家屋を「効率よく」焼き払うために作られた兵器でした。

米軍の戦略爆撃機B29。全長30メートル、翼幅43メートル。高高度を高速で飛行可能で「超空の要塞」とも呼ばれました=1944年11月
米軍の戦略爆撃機B29。全長30メートル、翼幅43メートル。高高度を高速で飛行可能で「超空の要塞」とも呼ばれました=1944年11月

深夜に始まった2時間余りの空襲で、死者は約10万人、焼失した家屋は約27万戸、被災者100万人以上という甚大な被害がもたらされました。

恵美子さんは「空襲を生き延びても、戦争が終わっても、その後もまた、大変だったの」と語ります。

お金があっても買えなかった

現在の横浜市保土ケ谷区で生まれ育ったという恵美子さん。実家があった地域も、たびたび空襲の被害にあったと言います。

「人が集まる駅のすぐ近くに爆弾が落ちたこともありました。空襲を避けるために地方に疎開した友達も多かったですね」

一番苦労したのは、食べ物の不足だったと話します。

「食べ物や生活必需品は、全て配給制になっていましたから、お金があっても買えないんですよ」

その配給も十分な量ではなく、お米の代わりにサツマイモやうどん粉が配られることも多かったそうです。

東京市役所(当時)の家庭用臨時配給米券。食料などの配給制は、日中戦争の影響で日米開戦前から始まっていました。この券は1941年のものだそうです
東京市役所(当時)の家庭用臨時配給米券。食料などの配給制は、日中戦争の影響で日米開戦前から始まっていました。この券は1941年のものだそうです 出典: 朝日新聞社

戦況の悪化とともに、食糧事情の悪化は続きました。

「おかしいと思っている人はたくさんいたはずです。内心、戦争に反対していた人だっていました。でも、それを口に出すことはできませんでした。そんなことしたら、憲兵に連れて行かれてしまいますから」

当時、女学生だった恵美子さんの学校や家の周りでも、腕章を着けた憲兵の姿があったそうです。

店内には、昔の食堂の写真も飾られていました
店内には、昔の食堂の写真も飾られていました

恵美子さんが両国にやってきたのは、昭馬さんと結婚した戦後のこと。混乱は、戦後もしばらく続いたと話します。

「食堂も、支払いはお金じゃないんです。配給と同じで食券が必要だったの」

米などが配給制だった戦時中、自炊をせずに外食で暮らす人には、指定された食堂などで使える「外食券」が交付されていました。

下総屋食堂も、こうした外食券食堂のひとつで、この仕組みは、戦後もしばらくの間続きました。

昭和25年(1950年)当時の外食券。この券と引き換えに一食130グラムの米がもらえたそうです。
昭和25年(1950年)当時の外食券。この券と引き換えに一食130グラムの米がもらえたそうです。

「配給や食券だけでは生きていけないから、『闇米』に手を出す人も多かった。都会の人が農村まで直接買いにいったり、農村からお米を売りに来たり。警察に見つかると没収されてしまうから、みんな必死に隠して持ち運ぶんです」

闇米は公定価格の数十倍の値段で取引きされることも珍しくなかったそうです。

食糧事情が改善し、外食券制度が無くなったのは1951年のことでした。

「映える」と若者に人気も

下町の住民たちに愛されてきた下総屋食堂ですが、風情ある店内は、「闇金ウシジマくん」や「ドクターX」など、多くのドラマや映画などのロケ地にもなっています。

最近は「聖地巡礼」目当てのお客さんや、レトロな店内の雰囲気そのものに惹かれた若者の来店も多いそうです。

「みんな『初めて見た』『映える』なんて言って、スマートフォンで写真を撮っていきますよ」と話す恵美子さん。

昨年末に恵美子さんが体調を崩して入院してしまったため、下総屋食堂は現在、臨時休業中だそうです。

「体調も良くなってきたので、ぼちぼち再開したいと思っています。常連さんが『早く営業して』ってうるさいから」と笑います。

食堂の思い出を語る恵美子さん。昭馬さんが亡くなった後は、主に息子さんと2人で切り盛りしていたそうです。
食堂の思い出を語る恵美子さん。昭馬さんが亡くなった後は、主に息子さんと2人で切り盛りしていたそうです。

戦後80年を迎える今年、当時と今を比べてこう振り返ります。

「今はいい時代ですよ。昔は『あれがしたい』『これがしたい』なんて言える時代じゃなかった。今は好きな時に好きな物を食べることができるし、自分の人生だって自分で選ぶ自由があるでしょう?平和があってこそだと、本当にそう思います」

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