看護師として働いていたとき夫ががんになり、休職して自宅で看取った玉置妙憂(たまおき・みょうゆう)さん。その後、出家して僧侶となり、現在は緩和ケア病棟でスピリチュアルケアを担当しています。ふだんなかなか意識することのない「生老病死」。玉置さんに、「死」との向き合い方について聞きました。(構成/withnews編集部・水野梓)
作家・浅生鴨さん(MC): 毎年、SNS医療のカタチTVでは、「死」について宗教家のみなさんに話を聞いています。
今回は、看護師で僧侶の玉置妙憂さんにお越しいただきました。玉置さんがなぜ仏門に入られたのか、まず教えてください。
玉置妙憂さん(僧侶・看護師): 私が出家して得度したのは15年ぐらい前なんですけれども、きっかけは夫を在宅で看取ったということでした。
玉置さん:まるで武将の姫のように、殿が亡くなったら髪を下ろして……なんてイメージを持たれるかもしれませんが、そうではなくて(笑)。
葬儀屋さんが呼んだお坊さんがお経をあげたところ、それがちょっと、まあ、ひどくて、親族一同からクレームがきましてね。それなのに、包むものは包まなけりゃいけない、と。
今後、一周忌三回忌と法要は続くわけだから、「そんなんであれば私がやるか」と。「あれよりは上手に読めるんじゃないか」という自負もありました(笑)。
浅生さん:看護師としてもずっと働いてらっしゃるんですよね。看護師と僧侶の立場って、似ているようで違うような、同じものを別の角度から見ているような気がします。
玉置さん:看護歴はそろそろ30年になろうかというところですが、看護師としてはどういうわけか外科系ばっかりに配属されていました。そうなると、亡くなっていく方も担当することがあるんですね。
僧侶と看護師が似ているところというのは、「人の生き死に」と非常に近いところにいることだと思います。
看護師として「もう薬が効かない」「治療法がない」という医療の限界も見るんですよね。でも0.1%でも可能性があると、医療側は「まだやれることがありますよ」などと言ったりするわけなんですよ。
でも別の部分では、「これをやったとしても苦しいだけじゃないかな」「この薬をやって副作用で七転八倒するんだったら、やらないで残りの時間を過ごすっていう手はないのかな」とも思いながら過ごしていたんです。
玉置さん:そして僧侶という立場になって二足のわらじを履いてから変わったところは、「人間っていつか死ぬんですよ」ってことを正面切って言えるようになったということです。
看護師の時に、患者さんの点滴に薬をつなぎながら「人間って…いつか死ぬんですよ…」とは言えないですよね(笑)。問題になっちゃいます。
でも、非常に言いづらいことだけれど、それは本当なんです。この姿を手に入れましたら、「人間っていつか死ぬんですよ」って言ったときに、皆さんが「そうですね」と言って下さるようになりました。だから守備範囲が広がった気がします。
医師・看護師っていうのは、生きている間が守備範囲ですから、「死んだらどうなるんでしょうか」って言われたらざわざわっとするわけですよ。学校で習ってないし。でも、僧侶だと「そうですね…」とお話ができる。そのあたりに違いがあると思います。
浅生さん:現在はどんなケアをなさっているんですか?
玉置さん:スピリチュアルケア師という名称で緩和ケア病棟で働いています。
「スピリチュアル」と聞くと「ちょっと怪しい」「壺を売られるかも」って思いませんでした?スピリチュアルはれっきとした医療用語で、心の問題よりももうちょっと下にあるもののことです。
「私達の存在そのものに関わるような痛みとか苦しみ」というものをケアするものです。じゃあそんな根源的なものに対してどうやってやるのかというと、話を聞いているだけなんですけど。
それがイコール宗教なのかというと、非常に近いんですが宗教家として入っているわけではないんですよ。
浅生さん:心理学みたいなものですか?
玉置さん:心理学とも違っていて。例えば心の問題って、皆さんもう気がついているんですよね。「今日やる気がないんです」とか意識しているところですよね。
スピリチュアルペインは、私たちが意識しないところにあるんですよ。
「なんだかうまくいかない」とか「体の調子が悪い」とか、「お酒を飲まないとやってらんない」っていう、その下に、スピリチュアルペインがあるかもしれないです。
浅生さん:実際にお話を聞いて、患者さんはどう変わっていくんですか?
玉置さん:お話を聞くことによって、もちろん突然元気になるわけではないんですね。そのためには、何度も語ることによって「物語を書き換える」ことが必要なんです。
私たちは何か物事が起きたときに、瞬時にそれぞれが「物語」を作ります。その自分の作った物語を、思い出として蓄積しているんです。
たとえば家族旅行に行ったとき、みんな同じものを食べて同じ宿に泊まった。お母さんは「楽しかった、また行きたい」って話しても、息子さんは「もう二度と行かない」なんて思っていることがあります。同じことをやっていても、作った物語が違うんです。
玉置さん: ある患者さんが、病棟で「私って生きている意味がなかったんですよ」「私の人生、大失敗でした」って語ったとしましょう。
それは事実ではなくて、ご自身の人生に起こったことを振り返って、「人生は無意味だった」という物語を作っちゃって、それで苦しくなってるんですね。
じゃあどうするか、っていうと、それを書き換えるために、誰かに何度も話さないとダメなんですね。
うわさ話でも、最初は大したことのなかった話が、いろんな人に話すうちに、手がはえて足がはえてとんでもない話に変わっていくのとほぼ同じです。
だんだん話しているうちに、「ろくでもない人生だったとはいえ、楽しかったこともあったんですよ」なんてひと言が出てくる。何かが加えられて、物語が変わっていくんですね。
浅生さん:看護師の時には、そんな話を聞くことはありませんでしたか?
玉置さん:全くないわけではないです。でも、看護師に徹底的にないものがあって、それは「時間」です。
患者さんがそういうことを今語りたいんだろうな…と感じるときはあっても、1日に何人となく受け持ちの患者さんがいて、次に行かなきゃいけないってなってるわけですよ。
じっくり語るには、私の今の体感ですけど「30分」は必要ですね。それ以下の時間だとちょっと難しいんです。
今の私は、看護業務は一切していなくて、スピリチュアルケアだけで雇ってもらってますのでね、それができるんです。
編集者・たらればさん:物語を書き換えるためには語らないといけない、というところに非常に感銘を受けました。
たらればさん:でも多分その語る相手って、誰でもいいってわけじゃないんですよね。SNSで吐き出しているだけ、AIチャットボットでもダメなんですよね、きっと。
語るだけでは解決しなくて、誰かに聞いてほしくて、その「誰か」は誰でもいいわけじゃなくて…。それがわりと厄介というか、なかなか一朝一夕にはいかない話だな、ということを思いました。