夫を自宅で看取った経験から出家し、僧侶・看護師として、現在は緩和ケア病棟でスピリチュアルケアを担当している玉置妙憂(たまおき・みょうゆう)さん。私たちは「いつお迎えがくるか分からない」という、分からなさやコントロールができないことに「怖さ」を感じる、と指摘します。作家や編集者たちと語り合いました。(構成/withnews編集部・水野梓)
作家・浅生鴨さん(MC):SNS医療のカタチで「死」について宗教家に聞くシリーズ1回目から、編集者のたらればさんは、「死ぬのが怖い」とおっしゃってますよね。それは未だにそうですか。
編集者・たらればさん:もちろんです。そりゃあ「死」は怖いです。
毎回この話を鴨さんから振られて、すこし不思議に思うんですが、死はむしろ「怖い」というのがデフォルトだと思うんです。登壇される方は皆さんご立派な方が多くて、「いや自分は怖くないよ」とおっしゃるんですけど。
浅生さん:情報がなさ過ぎて、怖がりようがないんですよね。
水野梓・withnews編集長:わたしは「知らないから怖い」ですね。
自分がいなくなること自体を恐れたり、何かやり残したことがあると悔しくなったり、すごく恥ずかしい何かを処分し忘れたことに気づいたりとか…そして「いつ来るか分かんない」っていうのも怖いです。
浅生さん:でも「あれ処分し忘れた」とか思っても、死んじゃったら関係ないじゃないですか。
たらればさん:いやまあその気持ちも分からなくはないです。鴨さんとこの話をしに年に一度、来ているわけですし(苦笑)。
ただ、これはよく言われる話で、たとえば「あなたは来週死にます」ってなったら、今日の行動って変わるじゃないですか。
みんな1年後も10年後も生きているつもりで今日を生きている人が多いと思いますし、もちろんわたくしもそう思っているんですけど、そういう状況で「いやあと一週間です」と言われたら、今日の行動が変わる。
ということは、たぶん「死」が迫ることで(今日の)「生」が変わるわけですよね。その変化が多分「死の怖さ」の根源にあるんじゃないかと思っています。
玉置妙憂さん(僧侶・看護師):確かに、「死を考える」ということが、「今日生きることをよりよくする」っていうようなきれいにまとまるお話はたくさんあって、私も嫌いじゃないですけれども…。
玉置さん:でも私が思うに、今緩和ケア病棟というところにいて、余命があと数カ月と言われた方々とお話をする仕事をしていて、本当にたくさんの方のお話を聞いていて思うのは、「全く怖くない」って言う人はいません。
それは、「始末するものができていない」「行ったことのないところに行くから怖い」とかそういうことではなくて、もっと本能的なもので、私たちって所詮「生き物」ですから、この世に生を受けたときに、生き物としてより長く、1秒でも長くこの世にいるっていうことが何かプログラムされているような気がするんですね。
それができなくなる、絶えてしまうということは、もう本能的な怖さというか、埋め込まれた恐怖というか…。それはレベルの差はあれ、抱いていらっしゃるなって思います。
玉置さん:皆さんも、病などが身近になってだんだんと「死」がリアルになってきて、対岸の火事だと思っていたものが「火の粉が降ってきそうだぞ」「端っこが燃え始めたぞ」となった時に、初めて「死」を自分事として考えるはずですね。
どういう気持ちになるか、というのは、元気なうちは想像できないはずですね。それでいいんだと思うんですよね。なってみないと、分からない。
浅生さん:食べたことないものの味は、食べてみないと分からないってことですよね。
浅生さん:僕は分からないものに対して「怖い」っていう感覚があまりないので、分からないっていうことだけが分かっているという感じですね。
水野:わたしはやっぱり怖いので、いろんな人に「死」ってどう思ってますかとフランクに話すようにしているんですよね。
たとえば臓器移植の取材を長年やっているんですけど、自分は臓器提供がしたいということを家族に伝えています。最初、母には「縁起でもない」って言われたんですけど、今は分かってくれるようになりましたね。
そうすると、母の理想の最期の迎え方の話もできたりします。だから、根気強くフランクに話していかないとダメなのかなって感じました。
浅生さん:日常で「話す」ってことはすごく重要ですよね。
玉置さん:重要というか、「死」については話すことぐらいしかできないんでしょうね。だって結果的に死んだことがないからね、死んでみるわけにもいかないし、1回こっきりなもんですからね。
緩和ケア病棟にいらっしゃる患者さんで「怖い」っておっしゃる方は、「死ぬ」こと自体が怖いわけじゃないようなんです。
「お迎えに来るのはしょうがない」「死ぬのは仕方ない」と思っているけれども、「それがいつ来るのか分からないのがイヤだ」っておっしゃるんですよね。アンコントロールなんですよ。
私たちって、思い通りにいかないことが最高にイヤなんです。どんなことでも、きつい仕事でも、それが自分のコントロール下にあれば大丈夫なんです。
誰かに「やれ」って言われて、それが理不尽で、自分で全く納得できないことは、とても苦しいんです。
だから、「お迎えが来るときがいつなのか分からない」というコントロール不全っていうのかな……それはとても怖いみたいですね。
浅生さん:生と死の間にいらっしゃるような、本当に死を意識された人たちと、死を意識する前の人たちとの違いって何かありますか。
玉置さん:昨日お話しした方はね、最初に先生たちに言われた余命から1,2カ月過ぎている方だったんです。先生たちって割とタイトな制限時間を言うのでね、だいたいのびるんですよね。
でも昨日、「もうまもなくです」っておっしゃって。「外は暑いですか」って聞かれるんです。「暑いですよ」ってお答えしたら、「地球が何かおかしくなってるわね。もうここに、私たちは住んではいけないっていう合図かもしれないわね」って。
「私はもうまもなくだから、あちらに行ったら、皆さんがもう少しここを使えるようにお願いしとくわね」って言ってくださったんですよ。
これはもうね、「仏」でしょう。「ほぼ仏」です。そういう風に、非常に静かなお気持ちになっていらっしゃる方もおいでです。
玉置さん:でもそうすると、皆さん「穏やかに死にたいな」と思うでしょう。親や身近な人にも「穏やかに逝ってほしい」と願うんですよ。でも、それは、そのほうが自分がラクだから。誰もが「穏やかに死ななければいけない」というのは、違います。人それぞれ。
ある高僧は、「死ぬのは怖くない」ってずっと言ってたんです。なぜかというと「私には仏がついているからだ」って。その方が、いよいよという時になってお弟子さんを呼んだんですよ。耳を近づけたらね、「死にとうない」って言ったんですって。
浅生さん:これまで言ってたことは何だったの、ということですね(笑)。
玉置さん:でもそれでいいんですよ。死ぬってそんなにきれいなことじゃない。泥臭いもんです。だってこれだけのエネルギーを閉じていくんですから。
自分がどういうスタイルで逝くか、家族や身近な人がどういう死に方をするかは、それは分からないです。
理想通りにはいかなくても、そのまま「そうだったね」って受け止めればいいんです。「穏やかに死んだ人がよくて、死にとうないって言った人がダメ」っていうんじゃないですよ。
玉置さん:私たちは勝手に死に方にジャッジをつけるからね。
「孤独死」に、私たちは「お気の毒に」って言うでしょ。なぜひとりで死んじゃいけないんですか。「誰も構うな、私はひとりで死んでいく」と決めた「孤高死」かもしれませんよ。
その人の80,90年生きてきたものを、ひとりで亡くなったという最期だけで「社会のすき間で死んでしまったかわいそうな人生」ってジャッジしてしまうのは、失礼な話じゃないですか。
死というものはいずれ、100%私たちに訪れるものであって、その「形」はあまり意味がありません。ジャッジをするのは私たちだけ。来たるべき時が来るのを、ただただ、粛々と待てばいいのかな。