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職歴は「30くらい」 日本語版ウィキ最古参のユニークすぎる人生
「通った大学・大学院は10校くらい」
今年25周年を迎えたウィキペディア。その日本語版の立ち上げに携わった「ウィキ国内最古参」の梅本聖さん(57)は今回初めて名前・顔出しで取材を受けました。バイトも入れると「職歴はおそらく30くらい」というユニークな人生について聞きました。(朝日新聞withnews編集部・川村さくら)
ウィキ日本語版も2001年に開設されましたが、当初は日本語に十分に対応しておらず、ユーザーはローマ字で入力していました。
日本語で入力できる正真正銘の「日本語版」が始まったのは2002年9月。そこに携わったのが梅本聖さん(57)です。
日本語話者ではないユーザーからサイトの日本語化を手伝ってほしいとオンラインでメッセージを受け取り、作業を担いました。
「目次」「ユーザ」などサイト上の用語を1つずつ英語から訳したり、ページを動作させるためのシステムファイルの書きかえなどの膨大な作業をしました。
立ち上げ後の1年ほどはそうした管理業務を担っていて、その後は編集者の1人としてウィキに関わり続けています。
梅本さんは横浜市生まれ。父は鉄工業にたずさわっており、「電子機器なんて、ボタンを押したり乾電池を入れるくらいでしか触らない」ような人だったといいます。
両親の離婚の影響で小学4~6年生のころは富山県で育ちました。
「富山ではラジオを聞いていると朝鮮半島や中国、ロシアの電波も入ってきてたんですよ」
日々ラジオに触れるうちにメカに興味がわき、横浜に戻った小6のときには秋葉原通いが始まりました。
「あのころはマイコンブームってやつで大人たちが電子基板にむき出しの部品を並べたものを扱っていました。秋葉原に1人で来ている小学生なんか少なかったけど、みんな優しくしてくれました」
「横浜の電子部品屋にもトランジスタとかを買いに自転車で行ってたけど、店番のおばちゃんはとてもよくしてくれて、雨の日にはタオルを貸してくれたり、晩ごはんを食べないかと声をかけてくれました」
店だけでなく、図書館にも通って本を読んでメモを取り、電子機器の使い方を習得していきました。
中学生になると、バンドをやっている友人に頼まれてエフェクターを修理できるくらいの知識をつけていました。
アマチュア無線の免許をとったり、友人らとプログラムをマークシートに書いて市教委が貸し出していた大型コンピュータで実行してもらったり。
「部活は写真部でした。現像が楽しくて、自宅の押し入れにも暗室をつくった。何事も『これはどうしてこうなるんだろう』とプロセスを考えるのが好きなんです」
中学3年生のときには親を「だまして」初めて自分のコンピューターを買いました。
電器店で買う手続きを済ませてから自宅に帰り、親にお金を無心したのだとか。
実家は裕福ではありませんでした。
「普通受験のときって滑り止めとか複数校受けるでしょう。でもうちはお金がなかったから1校しか受けさせてもらえませんでしたよ」
無事合格した高校では仲間たちとコンピューター部を立ち上げ、プログラムを書いたり、インターネットの前身であるパソコン通信を使ってみたりしていました。
高校卒業後は一度就職して公務員になりました。
事務職を半年から1年ほどやってお金を工面したのち大学に入りましたが、経済的に厳しくなり退学しました。
「数えてみると学部と大学院合わせて10校くらい通ったと思います」と振り返る梅本さん。
この時期は様々な仕事を経験しながら大学に入っては辞める時期が続きました。
2つめに入った大学では経済学を志しますが、授業料未納で年内で除籍に。
20代後半で3つめの大学にて社会学を専攻して卒業し、社会情報学の修士課程に進みました。
その研究計画を立てるために使い始めたのが英語版のウィキでした。
参考文献を探すとっかかりにしたり、リサーチした内容をまとめる先として使ったり、「とても便利だった」といいます。
やがて指導教官がいなくなってしまったため、4つめの大学で博士号(専門職博士課程)を取得。
このころには息子が生まれていて、ベビーカーを押して大学院に通っていました。
修士と博士の課程では、貸与型の奨学金を使って生活していました。
学位取得の前後では、返済の猶予をもらうために放送大学にて異なる専攻の分野で計3回卒業しました。
現在は東京都在住で、作曲家である息子と2人で会社を運営しています。
法律事務所に勤めていた名残で、かつては法律事務の下請けをしていましたが、今は電子部品の販売や音楽家である息子の著作権管理をしています。
経験してきた仕事を一通り教えてもらいました。
「私の中では3つのジャンルに分かれていて、IT、事務と、雑誌や新聞などマスメディアに関わるものです」
「事務だと公務員、法律事務所、司法書士事務所もありました。博士課程のころにはお金が足りなくて専門学校で情報処理の非常勤講師もやりました」
「ITは、電話会社や民間企業のIT部門ですね。秋葉原の家電量販店でコンピュータのオペレーターをやっていたころ、周辺にインターネットの専用線が敷かれることになったけど、管理できる人がいないっていうんで、手をあげて責任者になったこともありました」
「雑誌、新聞、広告の仕事もしたことがあるし、男性誌やゲイ雑誌の撮影もやりました。バイトも入れるともっといろいろやってますよ。ワコール、帝国データバンク…冷凍倉庫は寒くて1日でやめました。郵便局の集配は楽しかったですよ」
法律事務所と電話会社勤めが長く、6~7年続きました。それ以外は飽きるか「だいたいクビになった」といいます。
「『もっとこうしたほうがいい』って口を出すとだいたいクビになるんです」
これだけユニークなキャリアを歩んできた梅本さんに人生観・職業観を聞きました。
民間企業で働いていたころ、上司から「あと3年我慢してくれたら好きなところに異動させてあげるから」と言われたことがありました。
その企業には南極観測隊への派遣制度がありました。
梅本さんは南極に行けるなら我慢するつもりでしたが、途中で制度が縮小されて南極行きの可能性はほぼなくなってしまいました。
「3年もあったら学位取れるよねと思って、仕事を辞めて進学したんです。生きている時間は限られてるんだから、我慢してお金を稼ぐよりもおもしろいことをしたい」
「永遠の命じゃないからなるべく充実した人生にしたい。そのための手段が仕事、という位置づけです」
「世の中のほとんどの人も『充実した人生にしたい』と思いながらどうしたらいいか分からないんじゃないですか。会社やめて生活できるのかって不安が大きくなりますよね」
「それは受験や就活でつかみ取ってきた成功体験があって、そのルートから外れるのが怖いからでは。僕の場合はそれがなくて、なんとか切り抜けて生きてきたから仕事に執着がないんです」
所帯を持った段階で、同じ仕事を続けるよう周囲からのプレッシャーはなかったのか聞くと…。
「ベビーカーを押して大学院に通ってたし、授業中は院生室で他の院生が息子を見てくれていました。授業の合間には、専門学校で教えていました。元配偶者が早い段階で出ていったのも、こういう生活に耐えられなかったからかもしれません」
子育てのなかでも、ウィキぺディアンらしい一面もあったようです。
「子どもが『それ絶対なんとかだよ!』って言うと『本当に絶対なの?絶対なんて存在するの?』って聞いていましたね」
そんな息子はウィキペティアの日本語化と同じ2002年生まれで今年24歳、作曲家として活躍しているそうです。
「ウィキペディアに息子の名前のページが立っていることに気づいたときは、なんだか感慨深かったですね」
梅本さんのウィキ利用者ページはこちら
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