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「誰にも話すな」と言われた友の死 〝あの日〟を語り始めた理由
4月18日は何の日か――。
こう問われて、すぐに答えられる人は少ないかもしれません。東京都荒川区のある男性は、10年ほど前から、この日に自分が経験したことを語り始めました。
仲良しだった友達が死んだこと。大人たちから「このことを話してはいけない」と口止めされたこと。
ちょうど82年前の1942年4月18日、日本本土が初めて米軍機の空襲を受けた日のことです。
(朝日新聞デジタル企画報道部・武田啓亮)
突然、「ザザザー」と何かが覆いかぶさるような音と、「ドカン」という衝撃があって、家の中が真っ暗になりました――。
4月13日の土曜日、荒川区立尾久図書館で、区内の西尾久に住む堀川喜四雄さん(91)が40人ほどの聴衆を前に話をしていました。
今から82年前の4月18日、国民学校初等科3年(現在の小学校3年生)だった堀川さんは、当時も荒川区に住んでいました。
「その日は土曜日で、正午すぎだったと思います。学校から帰ってきた後、母が出かけていたため1人で留守番をしていました。家の中が真っ暗になると、数秒もしないうちに、目の前に炎が広がっていきました」
とにかく、火を消さなくては。
とっさに風呂場に向かいましたが湯船に水はなく、その間にも炎はどんどん広がっていきます。
「消火はとても間に合わない。すぐ逃げないといけないと思いましたが、衝撃でゆがんでしまったのか、勝手口の扉が開かないんですね。開いていた台所の小窓からなんとか外に出ることができました」
隣人の女性と一緒に避難したところで、堀川さんはあることに気づきます。
「ミサオ君がいない」
隣人の女性の次男で、堀川さんにとっては同級生の美佐男君(当時8歳)の姿がありませんでした。
毎日のようにメンコやベーゴマで遊んだ一番の親友が、倒壊した隣の家の下敷きになって亡くなったことを知ったのは、翌日のことでした。
堀川さんの自宅が被害を受けた時間から、さかのぼること約4時間。
日本の沿岸から東に約1200㎞離れた太平洋上に、米海軍の空母「ホーネット」の姿がありました。
飛行甲板に並んだ16機のB25爆撃機が次々に飛び立ち、東京、横浜、名古屋、神戸など、日本の各都市へと向かっていきました。
一連の空襲は、指揮官の名前を取り「ドーリットル空襲」と呼ばれています。
真珠湾への奇襲攻撃以来、連戦連勝だった日本にとって、本土が敵の攻撃にさらされるのは初めてのことでした。
この空襲は、本来、地上の基地で運用する前提の機体を空母から発艦させる「奇策」でした。
日本側の対応は遅れ、東京では爆撃される前に空襲警報を鳴らすことができなかったといいます。
全国で爆弾や焼夷弾が投下され、確認されているだけでも87人が亡くなりました。
この空襲は直接的な戦果を狙ったものではなく、真珠湾攻撃以来、日本軍との戦いで敗戦が続いていた米軍側が、国内の士気を高めることを主な目的として行ったとされています。
軍部は国内に動揺が広がるのを防ぐため、この空襲について「損害軽微」とし、「敵機9機を撃墜」とウソの戦果を発表しました。多くの新聞もこれにならいました。
堀川さんも大人たちから「このことは誰にも話してはいけない」と口止めされたと言います。
「『日本は神の国だから負けない』『最後には神風が吹く』。当時は大人たちのそんな言葉を、本気で信じていたんです」
やがて戦況が悪化、日本が降伏して、大人たちが言っていたことがウソだと分かっても、堀川さんは自身の経験を話す気にはなれませんでした。
「自分にとっては思い出したくない悲しい記憶でもありましたから、戦後も誰にも話さず、自分の胸にしまってきました」
堀川さんが自身の記憶を語るようになったのは、10年ほど前。自分と同じような経験をした語り部たちと出会ったことがきっかけだと言います。
「今は、戦争の不条理を知らない人たちが圧倒的多数になっているでしょう。自分の経験を語って残すことが、私に残された責務じゃないのかと考えるようになったんです」
日本中が「勝ち戦」の熱気に包まれていたさなか、自分の町に突然、爆弾が落ちてきたあの日のこと。
親友を亡くした悲しみや、家を失い、疎開先でつらい思いをしたこと。
地域の中学校や図書館などに出向き、若い世代に自身の戦争体験を語っています。
「戦争は勝っても負けても、庶民にとっていいことなどありませんよ。あの日、突然命を絶たれてしまった美佐男君のことを、私は忘れません」
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