今度は、日本の助けになりたい――。ウクライナから日本に避難しているポジダイエバ・アンナさん(50)は、母国料理をふるまったり自らの戦争体験を語ったりする全国キャラバンを企画しています。壮絶な戦争体験を経て、家族4人で日本に避難してきたアンナさん。最初に移り住んだ九州で豪雨災害が起きたときには、被災地で母国の料理を振る舞ったこともあります。日本で暮らし続けると決めたアンナさんに、未来への思いを聞きました。(デジタル企画報道部・中山美里)
――2022年、日本に避難してきたアンナさん。日本語が堪能ですが、どうやって習得したのですか
20年ほど前に約2年間、福岡市の美容学校に通っていました。
もともと日本の伝統文化に興味があって、特に古い音楽、舞踊が好きです。美容学校を卒業後は日本で働きたかったけれど、夫との結婚を機にウクライナに戻りました。
――ウクライナではどのような生活を送っていましたか
首都のキーウで弁護士の夫と2人の娘と暮らしながら、ネイルやスキンケアをする美容サロンを経営していました。
サロンは2店舗あって、自社で化粧品の開発もしました。普通のいい生活でした。
ーーどのような経緯で日本に避難してきたのでしょうか
2022年2月26日。ロシアによる侵攻が始まって2日後の朝、自宅近くに大きな爆発音が響きました。ミサイルでした。
そして、自分の美容サロンが入っていたビルを直撃したことを知りました。
2日後に様子を見に行くと、ビルは漏電、下の階は浸水していて、店は諦めるしかありませんでした。
その後に、食材の買い出しにスーパーに行ったのですが、店は混雑していてすぐには入れず、家族4人で代わりばんこに4時間並びました。外は零下10度近くありました。
食材は品薄になっていて、店頭にパンが補充されると、客は我先にと奪い合いました。床に落ちたパンを娘が拾って、ひとつだけ購入できました。
インターネットは2週間近くつながらなかったり、銀行も機能が止まって現金を下ろせなくなったりしました。
空襲警報も鳴りやまず、娘は「ママ、これからどうするの」と泣きました。命の危険を感じ、秋頃にウクライナを離れる決断をしました。
――避難先に日本を選んだのはどうしてでしょうか
一番安全だと思ったからです。私は英語も欧州で使われる言語も話せないけど、日本語は話せました。
先に欧州に避難した知人たちからは、厳しい生活の様子も聞かされていました。
ただ、当時13歳と15歳の娘にとっては、遠い異国の地。弁護士の夫は目に障害があり、日本語は話せません。
「日本に行ったら皿洗いの仕事しかできないかもしれないけど大丈夫?」と聞きました。
夫は「それでもいい。家族一緒が一番大事だ」と答え、みんなで日本に行くことを決めました。
――日本では最初、佐賀市に住んでいたのですね
はい、上の娘がインターネットで佐賀県と佐賀市、NPOが連携して避難民の受け入れ支援をしていることを見つけて、すぐに応募しました。
1カ月間待って、受け入れ許可の通知が来たときは、本当に鳥肌が立ちました。
避難を決めてからは、娘たちと日本語のオンラインスクールに通って、日本語を猛勉強しました。
――佐賀市での生活はどうでしたか
すぐにホテルのベッドメイキングの仕事を始めました。
また、私たちの受け入れ支援をしてくれた認定NPO法人「地球市民の会」にインターンをして、同じウクライナ人や外国籍の人たちが学んだり、働いたりするのを支援しました。
2023年夏に、福岡県久留米市で豪雨災害が起きたときは、その光景を写真や動画で見て、とてもショックを受けました。自分がウクライナで体験したような光景でした。
「自分に何かできないか?」と考えて、福岡県久留米市の公民館で被災した小中学生にウクライナの家庭料理を振る舞うイベントを企画しました。
子どもたちはミートボールのスープやチキンライスをおいしそうに食べて、ウクライナについての質問も飛び交って、盛り上がりました。
――今回、全国キャラバンを企画したのはなぜでしょうか
家族を受け入れてくれた日本に心から感謝しています。私も日本の人にいいことがしたい、支援されるだけでなくて、自分も誰かの助けになりたいと思いました。
「自分に何ができるか?」を考えたときに、私は料理が好きで、日本語が話せる。夫も野菜を切るなどの手伝いができる。
だから、皆さんにウクライナ料理を作ったり、ウクライナでの戦争の体験を話したりできると思った。人生1回だけなので大事にしないといけない、ということも伝えたい。
――昨年の夏、東京都へ引っ越しましたが、生活は変わりましたか
娘2人の学校の選択肢を増やすために、昨年の8月に東京都に引っ越しました。今は都営住宅に住んでいます。
娘たちはウクライナのオンラインスクールと日本語学校を掛け持ちしながら、日本の大学進学を目指しています。
私は夫と2人で平日の午前8時から午後5時まで、大手の家具販売会社で荷物の積み下ろしなどの仕事をしています。
その傍ら、昨年10月に国際交流や外国人材受け入れを支援する一般社団法人「多文化人材活躍支援センター」を立ち上げて、理事に就きました。
休日はセンターの活動に取り組んでいます。三鷹市で講演会をしたり、江東区で料理教室を開いたりしました。
ウクライナの生活はよかったけれど、それはもう昔の話。私たちは本のページをめくって、新しいチャプター(章)にいます。
ウクライナ料理と体験談を通じて、全国の人に平和の尊さも伝えたいです。
――将来はどのようにお考えですか
娘たちも日本が好きになり、ウクライナに戻りたくないと言っているので、定住したいと考えています。
夫はまだ日本語ができずひとりで仕事をすることが難しいので、一緒に働いています。
日本の文化をもっと知りたいし、ゆくゆくは自分のビジネスもしたい。いつかは、日本の伝統的な古い家に住んでみたい。
しっかり働いて、自分の家を買って、子どもを大学に行かせて、ちゃんと日本に住むことを考えたいです。