連載
#3 はたらく年末年始
そば屋なのに…忘れられないハードな年越し 断れなかったリクエスト
大晦日は、そば屋にとって年に一度のかき入れ時。前日から徹夜で準備をするお店も少なくありません。あるそば屋の店主は年末になると、常連客からの「リクエスト」を引き受けた時のことを思い出すそうです。そばへの情熱と年越しの思い出を聞きました。(朝日新聞デジタル企画報道部・武田啓亮)
12月下旬の午後、東京都練馬区にある「手打ちそば 萬月」を訪ねると、ちょうど仕込みをしているところでした。レトロな雰囲気の店内には、かつお節と醬油の良い香りが、かすかに漂っています。
「醬油、酒、みりんを材料に、そばつゆの元になる『かえし』を作るんです。直接火にかけるんじゃなくて、こうやって鍋のお湯で湯煎するんですよ」
店主の永山功さん(56)が説明してくれました。
この後、かえしをかめの中で1カ月ほど寝かせて、かつお節や昆布などから取った出汁を合わせるとそばつゆが出来上がります。
店の2階で粉をひいて打つそばとの相性は抜群。おすすめはそばの風味が感じ取りやすい、せいろそばだそうです。
年越しそばと言うと温かいそばをイメージしますが、この店での大晦日の売り上げは冷たいそばと温かいそばで半々とのこと。
「大晦日は圧倒的に温かい天ぷらそばが売れ筋なんですが、そば好きの人は冬でも冷たいそばを頼む方が多いですね。うちが半々なのは、そば通のお客さんに評価してもらった結果だと考えると、ありがたいことです」
永山さんがそば打ちの世界に足を踏み入れたのは、26歳の頃。
「秩父の山奥でおじいさんがやっている茶店のそばが、びっくりするほど美味しかった。それまで自分がそばだと思って食べていたものはなんだったんだろうというくらい、本当に、衝撃だったんですよ」
それまでホテルやレストランの従業員として働いていました。
都内のそば屋に弟子入りして4年ほど修行を積み、2005年に独立して、地元の練馬にこの店を開きました。
「ちょうどその頃、店の目の前にスーパー銭湯が出来たんです。風呂上がりにそば屋で一杯。そんなお客さんが来てくれるんじゃないかという期待もありました」
今では1日50人、大晦日などの繁忙期には100人以上のお客さんが来る人気店になりました。
「普段の倍のお客さんを迎えるわけですから、大晦日に向けての準備は大変ですよ。前日はほぼ徹夜状態です」
そんな中でも、永山さんが特に忘れられないのは2015年の年越しだと言います。
「職場の仲間と食べるおせち料理を作って欲しい」
ある常連客の女性から、そんなリクエストをされたそうです。
その女性は介護施設に勤めており、年末年始の当直に入っている職員のためのおせち料理作りを引き受けてくれるお店を探していたそうです。
「うち、そば屋ですからね。そんなサービスはやっていませんし、当然経験もありませんから……」
しかし女性が何度も頭を下げるので断り切れず、結局、依頼を引き受けてしまったという永山さん。
「大変でしたよ。買い出しに行って、食材の下ごしらえから全部……。そばの準備と合わせるとほとんど2徹、くたくたで寝正月です。喜んでもらえたのはよかったけど、もう二度とそば以外の仕事は引き受けないと誓いました」と苦笑いを浮かべました。
「おいしいそば屋さんに限って、量が少なくて物足りない」
永山さんはそんな自身の経験から、店で出すそばは味だけで無く、量にもこだわってきました。
800円のせいろは他店の1.5倍ほどはあるでしょうか。1200円の大盛りは、さらにその倍近くあるように見えます。
そば屋にとって特別な大晦日ですが、今年の営業は昼だけで、夜の営業はしないそうです。
「アルバイトの学生さんたちも、みんな帰省したり、夜は家族とゆっくりしたりということで人手が足りないんです。これも時代ですね。寂しいですが、仕方ないですね」
代わりに、持ち帰り用の、そばとつゆのセットを販売するそうです。
「ご覧の通り、うちは小さな店ですから。地元密着で細く長く、やっていけたらと思います」
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