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赤線建築に魅せられ30年…今も忘れられない「偶然見つけた遊里」
「鬼滅の刃」の吉原も 人の視覚に突き刺さる建物たち
女性が男性に遊興を提供した街「赤線」は、終戦後から高度経済成長の黎明期までの10年ほどの間、全国各地に存在していました。
「一見して普通でない」デザインの建物が生まれたのはなぜだったのか?
1998年に出版された写真紀行本「赤線跡を歩く(自由国民社刊)」の著者でフリー編集者の木村聡さん(67)は、1990年代から2010年頃にかけて全国を精力的に歩き回り、数々の古い赤線建築を撮影しました。
「赤線」とは、終戦後から売春防止法が全面施行された1958年(昭和33年)まで全国各地に存在した、女性が男性に遊興を提供した地域の俗称です。
呼び名の由来は「警察が地図上の盛り場を赤線で囲んだから」など諸説ありますが、定かではありません。
全国の元赤線の建物はほとんどが取り壊されており、現在、実物を見るのはたいへん難しくなっています。
そのため木村さんが撮影した膨大な量のフィルムは、今では貴重な記録になっています。
国内外で大人気の作品「鬼滅の刃」で舞台となった吉原の写真もあり、当時の屋号が残る建物も写っています。
「撮影する一方で建物がどんどん取り壊されていくので、焦りました」と木村さんは撮影当時の心境を語ります。
木村さんと筆者は、2021年10月にwithnewsで取り上げた遊廓建築の記事が縁となって、初めて対面しました。
その後、木村さん撮影のフィルムの中から約400点を朝日新聞フォトアーカイブがデジタル化。売春防止法全面施行後も、ほぼ当時の姿のままで余生を過ごしていた数々の建物の姿が、高精細のデジタル画像としてよみがえりました。
赤線建築に使われた派手な色彩のタイル装飾は、その存在を強烈に主張し、人の視覚に突き刺さってきます。
当時の赤線では、このような「一見して普通でない」デザインの建物が街中に軒を並べ、玄関では女性たちが柱などにもたれかかりながら、客待ちしていました。
終戦直後、GHQの意向により、女性が厳しい搾取にさらされた遊廓は廃止になりましたが、当時はまだ管理売春を明確に禁止する法律制定には至りませんでした。
そのため、遊廓に代わる遊興エリアとして新たに赤線の仕組みが作られ、店は「カフェー」などの業種として警察から営業許可を受けつつ、売春は「女給と客が恋に落ちた」との建前で黙認されていました。
建物にも「洋風の飲食店」などの建前が行政から求められました。
戦前の遊廓のような神社仏閣的な要素を持つ建築形式から一転、戦後は普通の家に急ごしらえされた円柱や曲線、モザイクタイルなどを多用したデザインで、カフェー風を取り繕ったような特徴のある店舗が一気に日本中へ広がりました。
2000年代初頭ごろ、木村さんが種をまいた「赤線建築を探す街歩き」に追従する人々が出現しました。筆者もそのひとりです。
日本家屋と形ばかりの洋風が合体した主張の強い建築の姿が、劣化しにくいタイル素材などによって後年まで保たれていました。
そのため、昭和感が残る街の散歩を好む層の視界に入るようになり、歴史的遺構としての側面が広く認知されることになりました。
その後、建物自体はどんどん解体されていきましたが、SNSの普及による情報の拡散は、個人の赤線跡探索を後押ししました。
地域の歴史を深掘りする研究も在野の研究者などによって飛躍的に進み、現在はレトロ散歩、廃墟趣味などと志向性を一部共有しながら、一つの分野として定着してきています。
元が娼家であることを謳う宿泊施設も出現しています。
東京・墨田区の旧玉の井エリアでは、古い赤線建築を、特徴を残しながらリノベーションした服飾のショップが開店しました。
木村さんに撮影時の裏話などをお聞きしました。
学生時代から、野坂昭如さんや五木寛之さんなどの作家の本に親しみ、赤線の予備知識はありました。
1986年頃、取材で訪れた横須賀の安浦の街並みに驚き、これは想像以上に不思議な場所だったんだな、と開眼した感じです。
荒俣宏さんの著作「異都発掘」(1987年)では赤線跡としての洲崎(東京都江東区)を取り上げていて、こちらからも刺激を受けました。
写真から分かるとおり、客を呼び込むためにいろいろ工夫されています。
原色やパステル調のタイルで飾られていたり、入りやすいようにドアが複数あったり、派手な電飾もそうですね。漆喰職人の造作も多く、曲線が多用されて女性的な印象の建物も多いです。
装飾にためらいがなくて、現代の建築物とは違って、引き算ではなく足し算の発想で内外ともデザインされていますね。
建物の「小ささ、ささやかさ」である気がします。雛形的な愛らしさというか、凝縮感というか。
茶室や盆栽、箱庭、今だったら「狭小住宅」に通じるような、日本人独特の感性や美意識と無関係ではないと考えています。
クルマでも、ギュッと機能が詰まった小さな車種が好きなんですよ。
赤線時代の経営者ご本人や、そのお子さんの世代も普通に住まわれていた時代ですから、街並みを写真として記録するのは勇気が要る作業でした。
それでも「自分が撮らずに、誰がいつ撮る?」という使命感みたいなものに突き動かされながら、現場を歩いていました。
撮影当時、裏風俗的に現役の色街として機能していた地域にもしばしば遭遇し、その場合はたいへん緊張しました。
当時はヒゲもじゃの風変りな外見だったので、この人に何言っても仕方ないと思われたのか(笑)、現地の方からとがめられたことは不思議とありませんでしたね。
街中に溶け込めるように、建築の現場調査のような姿で歩いたこともありました。
そんな大げさな意識はないです。
ただ、自分が撮影を始めたころは情報の流通がなく、前例もなかったので、場所のアタリをつけるために文献や資料、地図の発掘といった研究者的な活動もするしかなくて。
考古学的に、現地調査と文献収集を同時に進める必要がありました。
今治駅のすぐ近くにあった古い飲食店街です。偶然見つけた場所で、町並みが手つかずのままそっくり残っていました。
小さなエリアに様々な要素がぎゅっと凝縮されていて、密度感と箱庭感が印象に残りましたね。現在は、だいぶ様子が変わってしまっています。
今ならX(旧Twitter)などで反応がわかるのでしょうが、ネットがない時代ですから、いわゆる「読者カード」のはがきを見る以外なかったんですよ。
年配の男性からの「懐かしさを感じる」といったお便りが多かったのを覚えています。
もともと本職はフリーの編集者ですので、書籍のヒットは狙いましたが、予想以上のブームが来て驚きました。
「赤線学」というか、本格的な研究が始まるきっかけを作ったという意味では、確かに「パイオニア」かもしれません。
しかし周囲から勧められたブログなどを見てみると、優れた方々が次々参入されていて、現場での行動力も資料の収集方法も格段に進化を遂げていますね。
そんな感じですから、オーソリティ、第一人者などではなくて、ブームのきっかけを作ったくらいに見て頂けると気が楽ですね。
そうですね。一番残念だったのは、東京を代表する建物だと自分が思っていた洲崎の元「大賀」の解体ですね。
東日本震災でダメージを受けたと聞いています。
30年前、旧赤線ではインパクトが強い建物を撮るのに夢中で、二番手三番手を結構おろそかにしていまして、街全体の記録が少ないんですよ。
今はどこも街並みがすっかり変わってしまい、2軒3軒と連なる姿はすごく貴重になりました。
まとまった姿を、もっとたくさん撮っておけばよかったですね。
インタビューを通して、「赤線の歴史を研究している意識はない」と謙遜された木村さん。
女性が塀の中で自由を奪われ、身体と精神を酷使されながら春を売り続けるしかなかった戦前の遊廓から、戦後の赤線では一定の改善があったものの、行政と民間が共同で売春の仕組みを作り上げる構造は基本的に同じでした。
売春防止法の全面施行によって、赤線の街は世の中から消えましたが、木村さんが撮影した写真は歴史の証人として、確かにこの国に存在した赤線の状況を今に伝え続けています。
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