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話題

赤線建築に魅せられ30年…今も忘れられない「偶然見つけた遊里」

「鬼滅の刃」の吉原も 人の視覚に突き刺さる建物たち

目立つ装飾の赤線建築たち
目立つ装飾の赤線建築たち

目次

女性が男性に遊興を提供した街「赤線」は、終戦後から高度経済成長の黎明期までの10年ほどの間、全国各地に存在していました。

「一見して普通でない」デザインの建物が生まれたのはなぜだったのか? 

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【1999年 北九州市】極彩色タイルの玄関先
【1999年 北九州市】極彩色タイルの玄関先
左から【1997年 川崎・南町】当時の屋号「スエヒロ」が残る建物【2008年 横須賀・安浦】鮮やかな色彩の玄関
左から
【1997年 川崎・南町】当時の屋号「スエヒロ」が残る建物
【2008年 横須賀・安浦】鮮やかな色彩の玄関
現在、実物を見るのはたいへん難しくなっている「赤線」建築。

30年以上前から撮影していたフリーの編集者の貴重なフィルムから〝戦後の一時期だけ〟存在した色街の歴史を振り返ります。

(写真・木村聡 文・朝日新聞フォトアーカイブ 峰哲也)

全国の赤線跡を歩き回った編集者

1998年に出版された写真紀行本「赤線跡を歩く(自由国民社刊)」の著者でフリー編集者の木村聡さん(67)は、1990年代から2010年頃にかけて全国を精力的に歩き回り、数々の古い赤線建築を撮影しました。

【1993年 東京・玉の井】繊細な形のバルコニーの建物
【1993年 東京・玉の井】繊細な形のバルコニーの建物
【1994年 東京・吉原】裏通りの街並み
【1994年 東京・吉原】裏通りの街並み

「赤線」とは、終戦後から売春防止法が全面施行された1958年(昭和33年)まで全国各地に存在した、女性が男性に遊興を提供した地域の俗称です。

呼び名の由来は「警察が地図上の盛り場を赤線で囲んだから」など諸説ありますが、定かではありません。

左から【1994年 東京・吉原】進駐軍関係者立ち入り禁止の「OFF LIMITS」が残る入り口【2012年 東京・鳩の街】外壁に残る書き文字
左から
【1994年 東京・吉原】進駐軍関係者立ち入り禁止の「OFF LIMITS」が残る入り口
【2012年 東京・鳩の街】外壁に残る書き文字

全国の元赤線の建物はほとんどが取り壊されており、現在、実物を見るのはたいへん難しくなっています。

そのため木村さんが撮影した膨大な量のフィルムは、今では貴重な記録になっています。

国内外で大人気の作品「鬼滅の刃」で舞台となった吉原の写真もあり、当時の屋号が残る建物も写っています。

【1996年 東京・吉原】当時の屋号「さろん 松島」が残る建物
【1996年 東京・吉原】当時の屋号「さろん 松島」が残る建物

「撮影する一方で建物がどんどん取り壊されていくので、焦りました」と木村さんは撮影当時の心境を語ります。

人の視覚に突き刺さる建物

木村さんと筆者は、2021年10月にwithnewsで取り上げた遊廓建築の記事が縁となって、初めて対面しました。

【関連記事】「鬼滅の刃」の舞台「遊郭」どんなところ?消え行く建物が伝える情欲
https://withnews.jp/article/f0211012001qq000000000000000W0hb10101qq000023687A

その後、木村さん撮影のフィルムの中から約400点を朝日新聞フォトアーカイブがデジタル化。売春防止法全面施行後も、ほぼ当時の姿のままで余生を過ごしていた数々の建物の姿が、高精細のデジタル画像としてよみがえりました。

【2000年 金沢・石坂】3D風の床面装飾
【2000年 金沢・石坂】3D風の床面装飾
【1998年 名古屋・八幡園】亀甲型のタイルの床面
【1998年 名古屋・八幡園】亀甲型のタイルの床面

赤線建築に使われた派手な色彩のタイル装飾は、その存在を強烈に主張し、人の視覚に突き刺さってきます。

当時の赤線では、このような「一見して普通でない」デザインの建物が街中に軒を並べ、玄関では女性たちが柱などにもたれかかりながら、客待ちしていました。

終戦直後、GHQの意向により、女性が厳しい搾取にさらされた遊廓は廃止になりましたが、当時はまだ管理売春を明確に禁止する法律制定には至りませんでした。

そのため、遊廓に代わる遊興エリアとして新たに赤線の仕組みが作られ、店は「カフェー」などの業種として警察から営業許可を受けつつ、売春は「女給と客が恋に落ちた」との建前で黙認されていました。

【1996年 横浜・弥生町】カフェー風のモダンな外装
【1996年 横浜・弥生町】カフェー風のモダンな外装

建物にも「洋風の飲食店」などの建前が行政から求められました。

戦前の遊廓のような神社仏閣的な要素を持つ建築形式から一転、戦後は普通の家に急ごしらえされた円柱や曲線、モザイクタイルなどを多用したデザインで、カフェー風を取り繕ったような特徴のある店舗が一気に日本中へ広がりました。

【1996年 京都・七条新地】夕陽を受けるタイルの建物
【1996年 京都・七条新地】夕陽を受けるタイルの建物
【1996年 京都・七条新地】平成まで「お茶屋」として色街の命脈を保っていた街並み
【1996年 京都・七条新地】平成まで「お茶屋」として色街の命脈を保っていた街並み
【1997年 川崎・南町】バルコニーと円柱の形が愛らしい家
【1997年 川崎・南町】バルコニーと円柱の形が愛らしい家

2000年代初頭ごろ、木村さんが種をまいた「赤線建築を探す街歩き」に追従する人々が出現しました。筆者もそのひとりです。

日本家屋と形ばかりの洋風が合体した主張の強い建築の姿が、劣化しにくいタイル素材などによって後年まで保たれていました。

そのため、昭和感が残る街の散歩を好む層の視界に入るようになり、歴史的遺構としての側面が広く認知されることになりました。

左から【2005年 福井県・大野】簡素な装飾で洋風にした建物【1999年 北九州市・戸畑】足元でわずかばかりのタイルが客を出迎える玄関
左から
【2005年 福井県・大野】簡素な装飾で洋風にした建物
【1999年 北九州市・戸畑】足元でわずかばかりのタイルが客を出迎える玄関
【2000年 大分市】海に面した赤線エリアの建物
【2000年 大分市】海に面した赤線エリアの建物

その後、建物自体はどんどん解体されていきましたが、SNSの普及による情報の拡散は、個人の赤線跡探索を後押ししました。

地域の歴史を深掘りする研究も在野の研究者などによって飛躍的に進み、現在はレトロ散歩、廃墟趣味などと志向性を一部共有しながら、一つの分野として定着してきています。

【1996年 京都・中書島】窓が南国ムードで飾られた店先
【1996年 京都・中書島】窓が南国ムードで飾られた店先

元が娼家であることを謳う宿泊施設も出現しています。

東京・墨田区の旧玉の井エリアでは、古い赤線建築を、特徴を残しながらリノベーションした服飾のショップが開店しました。

撮影者・木村聡さん 赤線建築の「凝縮感」の魅力

木村さんに撮影時の裏話などをお聞きしました。

【2023年 東京・玉の井】戦後カフェー調の玄関と木村聡さん。意図的にカフェー調を残してリノベーションされた建物では、服飾店「モードの悲劇」が営業中(峰哲也撮影)
【2023年 東京・玉の井】戦後カフェー調の玄関と木村聡さん。意図的にカフェー調を残してリノベーションされた建物では、服飾店「モードの悲劇」が営業中(峰哲也撮影)
――どういった経緯で赤線の建物に注目することになったのでしょうか。

学生時代から、野坂昭如さんや五木寛之さんなどの作家の本に親しみ、赤線の予備知識はありました。

1986年頃、取材で訪れた横須賀の安浦の街並みに驚き、これは想像以上に不思議な場所だったんだな、と開眼した感じです。

荒俣宏さんの著作「異都発掘」(1987年)では赤線跡としての洲崎(東京都江東区)を取り上げていて、こちらからも刺激を受けました。

――娼家の特徴を教えてください。

写真から分かるとおり、客を呼び込むためにいろいろ工夫されています。

原色やパステル調のタイルで飾られていたり、入りやすいようにドアが複数あったり、派手な電飾もそうですね。漆喰職人の造作も多く、曲線が多用されて女性的な印象の建物も多いです。

装飾にためらいがなくて、現代の建築物とは違って、引き算ではなく足し算の発想で内外ともデザインされていますね。

――赤線の建築に魅せられる理由は?

建物の「小ささ、ささやかさ」である気がします。雛形的な愛らしさというか、凝縮感というか。

茶室や盆栽、箱庭、今だったら「狭小住宅」に通じるような、日本人独特の感性や美意識と無関係ではないと考えています。

クルマでも、ギュッと機能が詰まった小さな車種が好きなんですよ。

左から【1997年 東京・玉の井】重厚なバルコニーの建物【1997年 横浜・真金町】モルタル造で洋風にした建物
左から
【1997年 東京・玉の井】重厚なバルコニーの建物
【1997年 横浜・真金町】モルタル造で洋風にした建物
【1996年 水戸・奈良屋町】簡素な手法で洋風にした建物
【1996年 水戸・奈良屋町】簡素な手法で洋風にした建物
【1999年 香川県・善通寺】角にふたつの入り口がある建物
【1999年 香川県・善通寺】角にふたつの入り口がある建物
――撮影で大変だったことは?

赤線時代の経営者ご本人や、そのお子さんの世代も普通に住まわれていた時代ですから、街並みを写真として記録するのは勇気が要る作業でした。

それでも「自分が撮らずに、誰がいつ撮る?」という使命感みたいなものに突き動かされながら、現場を歩いていました。

撮影当時、裏風俗的に現役の色街として機能していた地域にもしばしば遭遇し、その場合はたいへん緊張しました。

【2000年 函館・若松町】駅前すぐの娼街。現在は再開発で撮影時の面影は全くない
【2000年 函館・若松町】駅前すぐの娼街。現在は再開発で撮影時の面影は全くない

当時はヒゲもじゃの風変りな外見だったので、この人に何言っても仕方ないと思われたのか(笑)、現地の方からとがめられたことは不思議とありませんでしたね。

街中に溶け込めるように、建築の現場調査のような姿で歩いたこともありました。

――歴史を研究している、という意識はありますか?

そんな大げさな意識はないです。

ただ、自分が撮影を始めたころは情報の流通がなく、前例もなかったので、場所のアタリをつけるために文献や資料、地図の発掘といった研究者的な活動もするしかなくて。

考古学的に、現地調査と文献収集を同時に進める必要がありました。

【1998年 名古屋・名楽園】遊廓時代からの建物で、赤線を経てソープランドになっても外観がほぼ保たれた
【1998年 名古屋・名楽園】遊廓時代からの建物で、赤線を経てソープランドになっても外観がほぼ保たれた
――強く印象に残った赤線跡は?

今治駅のすぐ近くにあった古い飲食店街です。偶然見つけた場所で、町並みが手つかずのままそっくり残っていました。

小さなエリアに様々な要素がぎゅっと凝縮されていて、密度感と箱庭感が印象に残りましたね。現在は、だいぶ様子が変わってしまっています。

【2004年 愛媛県・今治】大通りに面したアーチから中に入ると、凝縮されたかつての遊里があった
【2004年 愛媛県・今治】大通りに面したアーチから中に入ると、凝縮されたかつての遊里があった
――木村さんの著書「赤線跡を歩く」はシリーズ累計約10万部とお聞きしましたが、読者からの当時の反応は?

今ならX(旧Twitter)などで反応がわかるのでしょうが、ネットがない時代ですから、いわゆる「読者カード」のはがきを見る以外なかったんですよ。

年配の男性からの「懐かしさを感じる」といったお便りが多かったのを覚えています。

【1994年 横浜・弥生町】タイルのお化けのような外観の建物
【1994年 横浜・弥生町】タイルのお化けのような外観の建物
【1996年 京都府・橋本】彩り美しい泰山タイルで飾った遊廓時代の建物
【1996年 京都府・橋本】彩り美しい泰山タイルで飾った遊廓時代の建物
――今も熱心な愛好家によって探索が続いています。火付け役としてどう感じますか?

もともと本職はフリーの編集者ですので、書籍のヒットは狙いましたが、予想以上のブームが来て驚きました。

「赤線学」というか、本格的な研究が始まるきっかけを作ったという意味では、確かに「パイオニア」かもしれません。

しかし周囲から勧められたブログなどを見てみると、優れた方々が次々参入されていて、現場での行動力も資料の収集方法も格段に進化を遂げていますね。

そんな感じですから、オーソリティ、第一人者などではなくて、ブームのきっかけを作ったくらいに見て頂けると気が楽ですね。

――どんどん建物が壊されていく現状をどう思いますか。

そうですね。一番残念だったのは、東京を代表する建物だと自分が思っていた洲崎の元「大賀」の解体ですね。

東日本震災でダメージを受けたと聞いています。

30年前、旧赤線ではインパクトが強い建物を撮るのに夢中で、二番手三番手を結構おろそかにしていまして、街全体の記録が少ないんですよ。

【1997年 東京・洲崎】屋号「大賀」が残る建物と、雰囲気のある通用口
【1997年 東京・洲崎】屋号「大賀」が残る建物と、雰囲気のある通用口
【1996年 京都府・橋本】解体の跡に、床のタイルだけが残っていた
【1996年 京都府・橋本】解体の跡に、床のタイルだけが残っていた

今はどこも街並みがすっかり変わってしまい、2軒3軒と連なる姿はすごく貴重になりました。

まとまった姿を、もっとたくさん撮っておけばよかったですね。

【2000年 小樽・色内】素朴でカラフルな建物の並び
【2000年 小樽・色内】素朴でカラフルな建物の並び
【1999年 福岡県】左から北九州市白川町、久留米市中央町のバーの建物
【1999年 福岡県】左から北九州市白川町、久留米市中央町のバーの建物


【2022年 静岡県・下田】古い建物を撮影する木村さん。このときは2日間にわたり、神奈川県西部や伊豆半島の各所に同行させていただきました(峰哲也撮影)
【2022年 静岡県・下田】古い建物を撮影する木村さん。このときは2日間にわたり、神奈川県西部や伊豆半島の各所に同行させていただきました(峰哲也撮影)

インタビューを通して、「赤線の歴史を研究している意識はない」と謙遜された木村さん。

女性が塀の中で自由を奪われ、身体と精神を酷使されながら春を売り続けるしかなかった戦前の遊廓から、戦後の赤線では一定の改善があったものの、行政と民間が共同で売春の仕組みを作り上げる構造は基本的に同じでした。

売春防止法の全面施行によって、赤線の街は世の中から消えましたが、木村さんが撮影した写真は歴史の証人として、確かにこの国に存在した赤線の状況を今に伝え続けています。



木村聡さんの詳しい解説がついた、赤線建築の写真が多数並んだ特集サイト「木村聡 遊廓建築の世界」はこちら

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