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「鬼滅の刃」の舞台「遊郭」どんなところ?消え行く建物が伝える情欲
わかる人なら気づくタイル装飾、役割終えても暗示し続ける
「鬼滅の刃」の舞台となる、現在の東京都台東区の旧吉原遊廓は戦火で壊滅し、戦前の遊廓建築=妓楼は1軒も残っていません。
一方、京街道沿いに栄えた京都府八幡市の旧橋本遊廓は戦災を逃れ、2000年に筆者が初めて現地を訪れた時も、まだかなりの密度で妓楼だった建物が軒を連ねていました。
風紀上の政策により、遊廓と鉄道の駅は一定の距離を置いていることが多いのですがこの橋本は、なんと京阪電車橋本駅の改札前が遊廓街でした。大都市である大阪と京都のちょうど中間地点で、あえてメジャーを外す通好みの場所でもありました。
写真に残る洋風の建物は、屋根が瓦葺きの典型的な看板建築でした。和洋折衷は、独特のエキゾチシズムをかもし出します。店先やホールで客待ちした女性たちは遊興に向けた過多な装飾を背に、自身が置かれた境遇を強く意識したと想像できます。
妓楼は過剰に装飾的です。実際の造りから、遊興の演出のために豪壮で妖艶な装飾が欠かせないと当時の経営者たちが考えていたのがうかがえ、また彼らの資金力も見えてきます。
現在、橋本には元妓楼の旅館が2軒あり、宿泊者は美しいステンドグラスや、貴重な「泰山タイル」が使われている内部を見ることができます。
伏見水郷の十石舟観光や月桂冠などの酒蔵で知られる、橋本と同じ京阪電車沿線の京都市伏見区の中書島(ちゅうしょじま)。江戸期から昭和まで続いた遊里の跡に、昭和モダンの娼家が残っていました。
玄関前の防火水槽に「河内家」の屋号が右横書きされていることから、戦前の建物と思われます。
洋風の遊廓建築では遊興のアイコンとして、外装に様々な色彩のタイルが使われました。タイル装飾が送ってくるメッセージは、全く由来を知らなくても「違和感」として人の感性に刺さるほどに強烈です。
さらにタイルは経年劣化に強く、建物が本来の役割を終えた後も、かつての用途を居住者の思いに反して、いつまでも暗示し続けます。
これが、各地の建物がそのままの姿で現存しにくい、ひとつの理由になっているのは間違いないでしょう。
かつて行政は遊所の治安と、経営者たちのコントロールを目的に店を一か所に固め、そのエリアがそのまま「遊廓」になりました。大部分の遊廓では、全体を塀などで囲んで人の出入りを管理し、遊女の行動も厳しく制限しました。
現在の東京都江東区にあった洲崎遊廓は、正方形の出島のような埋め立て地が全て遊廓の指定地で、大門側の北と、西に橋がかかる以外は、四方を運河で囲まれた閉鎖性の高い立地でした。遊廓は太平洋戦争末期に、東京大空襲で壊滅します。
その後終戦とともに、前借金で女性を拘束する遊廓の商形態はGHQからの指示で禁止になりましたが、行政による「遊里」の統制・管理の仕組みは変わらず続き、いつしか「赤線」と呼ばれるようになりました。
洲崎でも正方形の東半分だけが戦後に赤線として残り、写真のような典型的な戦後調のカフェー風の店が登場しました。
横浜市西区、相鉄西横浜駅近くの小さな神社の門柱に、全く似合わない「カフエー」の文字が残っていました。
戦後の赤線では、娼家は「カフェー」などの業種として当局から営業許可され、売春行為は娼婦個人の自由意思による恋愛に類するものとして、黙認されていました。
神社は「新天地」という元赤線の中にあったもので、玉垣には寄進者である「千鳥」「紅梅」「さつき」「高砂」などの和風な屋号に混ざり、戦後らしい「ラッキー」といった外来語も並んでいました。
建物の業種が見る人に伝わりやすい戦後カフェー様式は、客に対しても行政に対しても重要な意味を持っていました。
見かけが洋風の飲食店というのは建前で、内実は実践的というのが本音ですが、エリア内でカフェーの姿であれば娼家だと瞬時に見分けられるため、結果的に外観に二重の意味が備わりました。
当局からの許可が必要な商いにおける本音と建前のとてもわかりやすい使い分けは、現在も個室付浴場などの分野で続いています。
神奈川県横須賀市にはかつて、公許の柏木田遊廓以外に、戦前から庶民を相手に賑わった海べりの私娼街・安浦がありました。
「1955年頃には約150の店が軒をならべる」(渡辺寛「全国女性街ガイド」)とあるように、比較的規模の大きな街だったようです。
この地では1958年の売春防止法施行後も、知る人ぞ知る場所として密かに営業が続いていましたが、現在は静かな住宅地になっています。
横須賀には安浦の他、京急田浦駅近くの皆ヶ作にも私娼街があり、戦後は約40軒規模で売春防止法施行まで営業が続きました。現地を歩くと、ここでも複数の戦後カフェー様式の建物が見られました。
戦後、行政は店に対し「あくまで働く女性の本業は女給等であるべし」と建前を明確にしつつ「遊里」の統制を進めました。店の造りも、極力、売春を想起させないものが求められ、戦前の妓楼的なものとは異なる、飲食店寄りの比較的小規模のカフェー調の店構えが全国的に流行しました。
温泉地の静岡県・熱海には戦前から川の脇の私娼街、通称「糸川べり」がありました。
この場所に、2010年代半ば頃まで「千笑」の大きな屋号が印象的な建物が残っていました。屋号がこれほど大きく残る家は、全国的にもたいへん稀でした。
現在サブカルチャーとして、遊廓の歴史研究の存在が少しずつ社会に知られるようになり、半世紀前の鉄道分野程度にまで、裾野が広がっているようです。
赤線の時代が終わってから63年が経ち、屋号も色タイルも、負の遺産といった典型的なものとはまた別の視点によって、大切な歴史の証言者との側面が発見され始めています。
糸川べりは1950年の熱海大火を経て、エリア全体が写真のような戦後調のカフェー街に生まれ変わっています。
千笑の周囲でも、パステル色のタイルを貼り巡らした家など複数のカフェー街の痕跡が見られ、首都圏に近い温泉地の赤線として地域経済と共生し、観光客呼び込みにも小さくない役割を果たしていたようです。
江戸時代、江戸の吉原、京都の島原、大坂の新町は三大遊廓と呼ばれ栄えましたが、長崎の丸山もそれらに並び立つほどの規模を持っていました。
1642年成立の丸山遊廓は、限定的に国交を持っていたオランダと中国の外国人居留地からの需要に応え、遊女を出島などの廓外に派遣していました。
こうした外国に対する政策は、終戦直後の占領軍に対して準備されたRAA(特殊慰安施設協会)などの施策と共通するものがあります。
丸山は原爆の被害を地形的に免れ、戦後は赤線に移行。妓楼が連なっていた目抜き通りから徒歩で狭い坂道を上ったところの、奥まった自動車も入れない廓の端のエリアに、当時の建物が残っていました。
戦後の建物の意匠トレンドは長崎のような地方にも及びます。黄土色の家には、当時の屋号「加登松」が残っていました。
今回取り上げた写真の建物は、一部を除いて既にこの世に存在しません。
遊里の建物は老朽化で既に多くが解体され、運よく残りつつも、主を失い余命わずかと思しき家もしばしば目にしました。
そういう死に体の建物であっても、鮮やかなタイルの色彩だけは昨日のもののように鮮烈に残り、いつの時代も変わらない人間の情欲の深さをかすれ声で今に語りかけてくるようでした。
いずれにしても、かつて繁栄の舞台になった建物を素材にして、他の多くの史実と同じように多面的に遊里を取り巻く歴史を知る事には、後世に向けた意義があるのは間違いないようです。
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