連載
#55 「見た目問題」どう向き合う?
「美人が好き」は差別? ナオコーラさんと語る「ブスとルッキズム」
〝外見〟を自由に話せる社会へするためには
近年、「ルッキズム」(外見至上主義)という言葉が広がっている。ルッキズムという言葉は、外見にかかわるあらゆる差別、苦悩、格差を語るためのキーワードになっているようだ。
私は顔にアザや傷など外見に症状がある人たちを「ユニークフェイス」と命名し、その当事者が直面している差別問題を訴えてきた。その中で、ユニークフェイスの当事者の苦悩と、「ブス」「ブサイク」の悩みは別の問題だ、と説明してきた。
しかし、作家・山崎ナオコーラさんは、著書『ブスの自信の持ち方』(2019年/誠文堂新光社)で、ブスとユニークフェイスを連続した地平で語っていた。
ブス・ブサイクの苦悩と、ユニークフェイスの生きづらさは、同じ文脈として語られる問題なのだろうか。私は、山崎さんに対話を申し込んだ。(文:石井政之)
1999年、私は顔にアザがある体験を『顔面漂流記』(かもがわ出版)に発表した。顔にアザがある人間のノンフィクションが日本には一冊もなかったからだ。当事者の書いた本がゼロ、という状況がイヤだった。
読者からの反響で多かったのが、「男でも、苦しい思いをしているのか」だった。外見の苦悩は男女に関係ない、と思っていたので、その反響は意外だった。
読者から連日、手紙が来た。それをきっかけにして、同じ当事者の集まり「ユニークフェイス」を設立し、後にNPO法人にした(2015年に解散)。その会員の約7割が女性だった。「外見の問題を語る男」という自分の意識と、「集まってくる当事者は女性が多い」というギャップに向き合うこととなった。
そのNPOの活動の中で、いわゆるブスやブサイクに悩む人たちからも参加したいとの要望があった。とくに外見に目立つ何かがないのに「自分の容貌がものすごく醜い」と思い込んでしまう「醜形恐怖」と感じられるような人もいた。
だが、私は「医学的な病名のついている外見の人が優先的にミーティングに参加できる」と決めた。当事者が混乱すると考えたためだ。また、ブス・ブサイクの問題まで含めると、活動の趣旨がぼやけ、外見に症状がある人たちが直面する差別問題を社会に訴える力が弱まってしまうと考えた。
山崎さんは著書の中で、両者の悩みを結びつけることに対し、「(外見に症状がある)当事者の方から、「『ブス』とは違う」と怒られるかもしれない」と躊躇しつつも、「私には地続きであるように感じられるのだ」と記した。
今回の対談でその理由について山崎さんに問うと、「ブス」と中傷され、悩んだ過去について、語ってくれた。
何がブスなのか。客観的な基準はどこにもない。だから語りにくい。それでもブスについて語るという、山崎さんの勇気に惹かれ、この対談記事ができあがった。
外見差別(ルッキズム)を語るとき、ひとりひとりの心の中に、「3つの立場」がある、と考えている。
①外見で他人を差別する<加害者>
②外見で差別される<被害者>
③外見の差別を見て見ぬふりをする<傍観者>
人間は外見を気にして生きることから避けられない。人間の業である。すべての人間はこの「3つの立場」を行ったり来たりして暮らしている。
ルッキズムの被害者と加害者がいる、という二元論では、外見差別は理解できない。
この対談を振り返って、私はブス・ブサイクという現実にあまり関心がなかったと気づいた。ブス、ブサイクと言われたことがなかったからだ。他人事だった。
私は、ブスについては③の「見て見ぬふりをする」傍観者の立場だった。その代わり、ユニークフェイスについては②の「差別される」被害者の立場で、その問題を告発してきた。
ルッキズムという言葉が広がって、外見差別の議論がしやすくなった、という山崎さんの指摘に同意する。これは「ユニークフェイス」という言葉では実現できなかった変化だ。
その一方で、被害者感情ばかりが強調される社会になってはいけない、と思う。雑談のなかで、美人が好きだ、と言ったらルッキズムなのか。これでは外見を自由に語れない。
「人間にとって顔とは何か」
その哲学的な問いかけは、すべての人に開かれている。
【外見に症状がある人たちの物語を書籍化!】
アルビノや顔の変形、アザ、マヒ……。外見に症状がある人たちの人生を追いかけた「この 顔と生きるということ」。当事者がジロジロ見られ、学校や恋愛、就職で苦労する「見た目問 題」を描き、向き合い方を考える内容です。
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