連載
#48 「見た目問題」どう向き合う?
外見差別と戦った同志の死 「バケモノ」と罵倒された過去
それでも笑い続けた稀有な才能
今年5月、ひとりの男性が亡くなりました。藤井輝明さん、享年64歳。顔に大きな紫色のコブがあり、幼少期にいじめられた自らの経験を全国2500の学校で語ってきました。そんな藤井さんの死に「生前に再会を果たせず、深く後悔した」と語るのが、生まれつき顔にアザがある石井政之さん(56)です。二人はかつて、外見に症状がある人たちの差別の解決に取り組む活動を一緒にしていました。「藤井さんが笑顔を絶やさなかった意味は何だったのか」。石井さんが藤井さんを知る人たちに話を聞きながら、振り返ります。
今年5月、Twitterを通し、藤井さんの死を知った。
藤井さんは医学博士として、熊本大や鳥取大などで後進の指導にあたるなど、その生涯を看護教育に捧げた人物だ。
彼の業績は、それだけではない。顔面に海綿状血管腫と呼ばれる紫色のコブがあった。顔にアザやキズなどの目立つ症状のある「ユニークフェイス」の当事者だ。彼は、幼少期にいじめられた体験を、約2500の学校で語ってきたユニークフェイスの講演者でもあった。
私もまた藤井さんと同様、顔面に単純性血管腫と呼ばれる赤アザがある。彼とともに、外見差別をなくすために活動をした時期がある。ここ20年ほど連絡を絶っていたが、彼の存在はいつも気になっていた。本稿は、一人の当事者が送った人生と、その功績について振り返るものだ。
藤井さんの最後の職場は、岐阜聖徳学園大学だった。老年看護学を教える特任教授として昨年9月に赴任していた。死の状況について、同大学事務局がこう教えてくれた。
「藤井さんは岐阜市内にアパートを借りて暮らしていました。5月4日深夜、大学近くの用水路で倒れていたのが発見されました。死因は急性心不全。自転車を運転中に誤って転落して心不全となったのか、心不全になって水路に転落したのかは不明です」
それは、周囲にとっても本人にとっても、突然の死だった。
私と藤井さんの出会いは、30年前にさかのぼる。
当時、私は20代半ば。フリーライターとして、顔面にアザのある当事者として、同じ境遇にある人たちの取材を進めていた。
1990年代、インターネットが普及していない時期である。私は自分の顔のアザを指し示しながら、「同じようにアザのある当事者がいたら紹介して欲しい」と友人知人に声をかけていた。その中に、筑波の学生に顔に大きなコブがある人がいる、という情報があった。
その人とは名古屋で会うことができた。それが藤井さんだ。筑波から名古屋大学大学院に来たばかりだった。
藤井さんは大柄の身体を揺すって席を立ち、「お忙しいところ、わざわざありがとうございます」と深く頭を垂れた。女性的な高いトーンで話す人だ、という印象を持った。
私の質問に対し、藤井さんはこう語った。
「地域でも学校でも、いじめにあったことがないんです。暴力をふるわれたこともありません」
それは、意外な答えだった。
しかし、その後、藤井さんは自著『運命の顔』(草思社)などで、幼少期に壮絶ないじめにあった、と書いた。
この記述を読んだときに「藤井さん、やっと本当のことを語り出したな」と思った。『運命の顔』が刊行されたのは2003年。藤井さんは当時46歳だった。
藤井さんが「嘘をついた」とは思っていない。私と会うまで、自分の体験を第三者に取材される経験がなかったのだろう。だから様子をみたのだ。
藤井さんをはじめとして、数多くの当事者にインタビューしてわかったことがある。そのひどい差別体験を周りが信じないので、分かってくれない、と諦めて、心を閉ざす当事者が多い。当事者が真実を話すまで時間がかかるのだ。
『運命の顔』によると、藤井さんが海綿状血管腫を発病したのは2歳のころだ。
父親は東京都の職員。母親は助産師と看護師の資格をもっていた。当時の医学では治すことができなかった。右目の近くに血管腫があったため、腫瘍の切除をすると右目が失明するリスクもあった。両親は、医学の進歩を信じて、病状を静観する決断をした。
勉学に励み、中央大学経済学部を主席で卒業。しかし、就職試験にことごとく落ちてしまう。容貌(ようぼう)を理由とする就職差別だった。大学の教授が「君の成績なら絶対に採用される」という銀行、金融会社からも不採用通知が来た。その数、約50社。
ある大手企業で採用を担当する幹部は、藤井さんにこう言った。
失意のときに、たまたま聴講した医療講演会で、ひとりの形成外科医と出会う。藤井さんの血管腫をみて「治療させて欲しい」と提案しただけでなく「うちの病院で働かないか」と励ました。運命の出会いである。医療の世界に飛び込んでいった。
就職先の病院で、約10時間の手術を受けた。大きくなっていた血管腫を切除した。右目の失明を避けるため、すべての血管腫を取り除くことはできなかった。しかし、容貌は大きく改善された。
新しい顔を手に入れて、藤井さんは、医療事務の仕事から、医療現場に行きたいと願うようになった。仕事をしながら看護学校に通って看護師資格を取得。それに満足せず名古屋大学大学院で医学研究をスタートした。
私は、自らの差別体験や藤井さんら当事者から聞いた話をまとめた著書『顔面漂流記』を1999年に発表した。
同時に、自助グループ「ユニークフェイス」(2002年NPO法人化)を旗揚げした。そのときには岐阜の短期大学に赴任していた藤井さんに、名古屋支部のまとめ役をお願いした。しかし、運営の進め方で意見の違いが出てきて、藤井さんがNPOから離れていった。
その後、藤井さんは当事者の呼称として「容貌障害」を提唱し、全国の学校を巡り自らの体験を語り出した。
その活躍を遠くから見つめながら、「いつかまた、一緒に当事者支援活動ができたらよいな」と思っていた。だが、再会を果たせぬまま、20年の歳月が流れていた。
「何とかして連絡を取りたい」。そんな思いが強くなっていたときだった、彼の死を知ったのは。信じられず、会っておかなかったことを猛烈に後悔した。
そして、私の中にある彼との思い出をたどるうちに、ふと思った。藤井さんはどういう人間だったのだろうか、と。私は彼と何度も会って話をしてきたが、彼の人物像を説明しにくい。いつも笑顔の人だった。一方で、自己主張は控えめで、私の前では自らのことは語らない人だった。
SNSを通し、生前の藤井さんとの交流のある人たちに取材協力を求めた。すると、藤井さんと30年以上のつきあいのある、山口秀樹さん(60)から連絡を頂いた。山口さんも、京都府立中丹支援学校副校長を務めるなどした教育者だ。
山口さんが20代のころ、2人は松下政経塾で出会ったという。
藤井さんは当時、「福祉入浴」の支援に取り組んでいた。福祉入浴とは、地域の銭湯を、高齢者のために無料で開放し、ボランティアが、その背中の汗を流す、という地域活動である。
藤井さんに誘われ、山口さんも福祉入浴に参加した。ある日、藤井さんはさらっとした様子で、「僕の顔にアザがあるのを気にされる利用者の方もいるのですよ」と語ったという。
「その言葉に、彼の心の琴線に触れた気がしました」と山口さん。彼の怒りの感情にも触れたことがあるとという。
「いつもニコニコ笑っている。しかし、あるとき、藤井さんが『友人のYさんが、アザのことで僕のことをバカにしている』と怒ったことがあった。ああ、藤井さんも普通の人なんだと思いました。笑顔は、彼なりのカモフラージュだったのかもしれない。『笑顔で生きると決めたんだ』と僕に言ってくれたことがありました」
藤井さんと同じ中央大学の卒業生である、北村信治さん(51)からも連絡を頂いた。
「藤井先輩には今年の1月、中央大学学員会(卒業生組織)の新春講演会に講師として登壇いただきました」
それ以来、藤井さんを自宅に招いて家族ぐるみの交流をしていたという。
北村さんの子ども2人は、藤井さんの講演「ふれあいタッチ授業」を学校で聴講したことがある。
3年前の小学3年生のときに、授業を聴いた長女は 「(顔を見て)最初はこわいイメージだったけど、話をきいてみると優しい先生だった」。授業の最後に、藤井さんのコブを触らせてもらった。「ハダ(肌)!! って感じだった」と笑顔で思い出してくれた。
北村さんの長男は8年前に聴講している。「やさしくて穏やかな人でした。顔にできものがあるけど、それをマイナスに考えずに生きている、という授業でした」と言う。
「とてもピュアで優しい人だった」と北村さん。「藤井さんは顔のアザをマイナスにとらえるのではなく、『こういう人が世の中で生きている。ひとつの個性として生きているんだ』と子どもたちに伝えていた」と振り返った。
藤井さんが晩年に勤めた岐阜聖徳学園大学の看護学部長、中尾治子氏にも話を聴くことができた。中尾氏は、藤井さんの最初の赴任地である、長野県の飯田女子短期大学の同僚でもあった。
「飯田にいる頃、藤井先生の顔にある血管腫を見て、学生ははじめは驚いていましたね。でも、藤井先生のおだやかな物腰と、学生に真摯に向き合う姿勢が学生につたわって、学生は藤井先生の容貌を気にしなくなっていったと思います」
コブのある顔について学生にも話をしていたこともあり、「藤井さんは顔の悩みを乗り越えたのだ」と中尾さんは思っていた。だが、岐阜聖徳学園大学で再び一緒に働くようになり、そうではないかもしれないと感じたという。
「仕事場で珈琲をいれたときにお誘いすると、必ず、お菓子などのお土産をもってくる。学内の会議でもお菓子をもってくる。『そんなことしなくてよいのに』と言っても、気遣いを怠らない。そのうちに、この気遣いは、自分を守るためじゃないか、と」
藤井さんが絶やさなかった笑顔についても、中尾さんはこう推測する。
「藤井先生は幼少期に受けた差別体験から、自分を守るために笑顔を絶やさないようにしたのでは。態度が大きいとやられてしまうから。だから、藤井先生はいつも卑屈なくらいに低姿勢だった、と思うのです」
中尾さんの見方に、私も同意する。大学教授になれるだけの知性と実績、そして笑顔と低姿勢、それがユニークフェイス当事者である藤井さんのサバイバル戦略だったのだ。
私たち当事者は、まわりからジロジロみられたり、侮辱や差別を受けた体験を共通して持っている。ジロジロ見られたとき、どのように対処するか。当事者が集まると、それが話題になる。
NPO法人ユニークフェイスでもその議論があった。藤井さんは、ジロジロみられたら、「ニコニコ笑って、お世話になっております、と声をかけてお辞儀をするようにしています」と満面の笑顔で説明した。それに対して、私は「相手は私たちを差別をしている、そんなことは絶対にしたくない」と応じた。
藤井さんは笑顔で私を見つめてきた。「偽善的な笑顔だな」と思った。藤井さんの目を凝視した。海綿状血管腫で囲まれた右目の、その奥底をのぞき込むような勢いで。藤井さんの右目から悲しみ、苦痛を感じたとき、「この人の笑顔は、差別から身を守るための盾なのだな」と感じた。
議論はやめた。サバイバルにはさまざまな方法がある。藤井さんは笑顔を選んだ。私は文筆でサバイバルしてきた。
藤井輝明とはどういう人物だったのだろうか。
40代で当事者としてその差別体験をカミングアウト。その後、ひとりで始めた「ふれあいタッチ授業」は好評で、全国で約2500の学校、団体で講演した。
ひとつの学校で仮に200人の生徒が受講するとして約50万人になる。彼は声高に差別を語らず、差別した人間を糾弾しなかった。笑顔で丁寧に子どもたちに、その体験を語っていった。偉業である。これほどの数の講演をした当事者は藤井さんが初めてだろう。ほんとうの意味のパイオニアだった。
私は、彼のふれあいタッチ授業を聴講したことはない。しかし、ある小学校で、彼の授業のやり方をマネしたことがある。授業の最後に血管腫を子どもたちに触ってもらったのだ。
授業の前には、私の顔を見て「気持ちが悪い」と言っていた子どもたちが、私の体験を聴き、最後に血管腫をさわったとき、「あたたかい、ふわふわしている」と歓声を上げた。
「これが藤井さんが見ていた風景なのだ」と思った。それは「風景の逆転」である。気持ち悪いと忌避している子どもたちが、私たち当事者の生の声を聴き、その肌にタッチすることで、「同じ人間なのだ、化け物ではない」と五感で感じ取る。
子どもたちの表情が「畏怖から親愛の情に逆転する」。それは驚くべき体験だった。藤井さんはこの体験を、数え切れないほどの子どもたちと共有してきたのである。
藤井さんは感動したに違いない。ふれあいタッチ授業は、子どもたちへの啓発活動であるだけでなく、彼自身の魂の救済だったのではないか。
藤井輝明とは教育者だった。差別する感情を、親愛の感情に逆転させる、希有な才能をもった人だった。容貌障害の差別をなくすために笑顔を武器に戦った。教室でたったひとりで差別に怯えていた少年から、大逆転の人生を成し遂げた。
心から尊敬する。
さようなら。外見差別と戦い抜いた同志よ。
【外見に症状がある人たちの物語を書籍化!】
アルビノや顔の変形、アザ、マヒ……。外見に症状がある人たちの人生を追いかけた「この顔と生きるということ」。当事者がジロジロ見られ、学校や恋愛、就職で苦労する「見た目問題」を描き、向き合い方を考える内容です。
1/22枚