連載
#22 凸凹夫婦のハッタツ日記
「人の気持ちがわからない…」 発達障害の私が悩んだ〝友達の定義〟
相手を慕うからこそ「友達」と言えませんでした
お互いの凸凹を補いながら生活している自閉スペクトラム症(ASD)の西出弥加(さやか)さん(33)と注意欠如・多動症(ADHD)の光(ひかる)さん(26)夫妻。妻・弥加さんは、ずっと「友達の定義」に悩んできました。大人になった今考える「友達」とは……?(文:西出弥加)
小さい頃は「友達」という意味がよく分かっていませんでした。「友達はいますか?」という質問をされたら「友達の定義とは……?」という気持ちになっていました。
先輩、後輩、クラスメイトというカテゴリーは分かるのですが、友達という存在がフワっとしたものに感じており、どこからが友達なのか分かりませんでした。「家族」も戸籍上の決まりがあるので、理解はできました。
そして、いつも遊んでいる子から「友達だよね」と言われると、少し思考が止まっていました。この言葉に対して「そもそも友達って何?」と聞いてしまうと面倒な子だと思われるので、この小さな疑問をずっと幼少期からためていました。
私の頭の中に「友達」というカテゴリーがなかったので、自分から本心で「私たち、お友達だね」と言ったことはありません。その最たる理由は、友達というフワっとした関係が私の中では無責任に思えていたからでした。
友達は都合の良いときに会い、笑いたいときに笑いますが、大変なときは特に一緒にいるわけでもない気がしたのです。恋人や兄弟より距離が近いものでもないので、とても難しかったです。
こんなことを考えず一緒に遊べば良いだけなのですが、友達という言葉自体がすごく気になっていました。
私はずっと昔から、好きな人と関わったなら一生添い遂げたいというような気持ちがあり、クラス替えだけでも疎遠になってしまう「友達」というカテゴリーに、大切な人を入れ込むことが難しかったのだと思います。
友達とは「進学やクラス替えで疎遠になる人」であり、「大人になったら絶対に関わらない存在」と感じてしまい、漠然とした大きな寂しさがありました。
私の中では「恋人」や「家族」なら「一生添い遂げよう」という覚悟がどこかでは生まれる気がするのですが、友達に「一生」を求めるのは少し違うような気がしていて、昔から空虚や孤独を感じていました。
相手に「友達だよ」と言ってしまうと「クラス替えとかでいつかは別れる、無責任な関係だよ」と言っているような気がしてなりません。
相手のことを好きだからこそ「友達だよ」とは言えなかったし、安易に友達を作れません。どこからが「友達」で、どこからが「クラスメイト」なのかわかりません。
特に小学校低学年の頃は優しい子が話しかけてはくれるのですが、正直、声をかけられてついて行ったあとの、大勢いる場への入り方もわかりませんでした。
「笑っている生命体がたくさんいる、どうしよう!」と思っていました。当時はすごく距離感を感じていました。地球人と火星人くらいの距離感で、存在は認識できるけど、どう話したら笑ってくれて、どんなことで喜んでくれるのか、全くわかりませんでした。
しかし、そんな私もクラスメイトの皆のおかげで次第に人付き合いができるようになりました。歳を重ねるごとに少しずつ変わることができたのです。
特に小学校高学年から中学にかけては、同い年の子達と笑い合えることが増えました。卒業アルバムのクラスのアンケートなどではポジティブな言葉が並ぶランキングの欄に私の名前が書かれていたこともあり、「結構私をポジティブに見てくれてた人はいるのかも」と思いました。
家庭では否定的な言葉をかけられることがほとんどで、自分に自信など持てませんでした。しかし今振り返ると、クラスメイトのみんなが否定的な言葉を私にはかけなかったので、普通に生きていたのかもと思います。
しかし私は大学を卒業する頃まで、幸せを感じることがありませんでした。
起きてから寝るまで、ずっと希死念慮がつきまとうのです。家に帰る気力もなく、勉強を頑張る余裕もありません。腕にはリストカットの傷がついていました。
しかしここでも、大人たちに否定されたり理不尽に怒られたりする私を肯定してくれていたのは、友達でした。
大学時代、家族が勧めてくれた学部に入ったものの、ゼミの先生との関係はよくありませんでした。でもそんなときに助けてくれたのもまた、友達です。
今まで「友達は、いつか離れる存在」と思っていた私に、大学生になって初めての大切な親友ができました。
悲しいときに必ず駆けつけてくれて、嬉しいときには一緒に喜んでくれて、一生懸命絆を深めようとしてくれる。「友達なんてどうせ離れるんだから助けないし助けられもしない」と思っていた私は、この人に心身ともに助けてもらいました。
「助ける」とは何か分からない私に、1から教えてくれたような気がします。私が今、誰かを思いやることができたり、誰かを助けることができているとしたら、この人の背中を見て成長したからです。
未だに「大学時代は迷惑をかけてごめん」と私から言うことがあります。当時の私はその人から見たら今にも消えてしまいそうな存在だったらしく、自分が守らなくてはいけないと思ったようでした。
当時は生きることに必死で気づきませんでしたが、今思うと初めて「自分を絶対に見捨てない人だ」と感じていたのだと思います。どこか親のような、兄弟のような、かけがえのない親友でした。
「これが友達というものかもしれない」と私の心で何かがつながっています。
私が結婚した理由は「夫を助けたかったから」とよく言うのですが、助ける方法や表現を教えてくれたのはこの人でした。
また大学時代に、別の友達からも一緒にアルバイトをしようと誘われて、してみたことがありました。
そのアルバイトが終わった帰り道、電車から夕陽が見えました。それは3歳のときに見た夕陽の光景以来、初めて「きれいだ」と感じた瞬間でした。きれいだと思う心の余裕を思い出させてくれたのは、この友達でした。
友達のおかげで幼少期から失った感受性を少しずつ取り戻し始めることができました。きれいなものがこの世にはたくさんあるのだと気づかせてくれました。
この友達と出会ってから15年の月日が経ちますが、今でも連絡をとっています。
つらいときに呼んでくれたら駆けつけようと思うくらい大切な人です。
しかし大人になってからまた壁にぶち当たります。せっかく長く付き合っている友達ができたのに、その人の気持ちがわからないという壁でした。
この類の一番大きな壁に出会ったのは、友達の結婚式に呼ばれたときでした。
私は「結婚とは幸せなことである」と思えない価値観を持っていて、友達の結婚報告に心が浮き立たず、自分を責めました。大切な人なので一緒に喜びたかったのです。
罪悪感と劣等感で頭はいっぱいで、そんな自分をまた責めては友達に対して申し訳ないという毎日でした。当日の式場では、みんな泣いて笑っていました。幸せそうで、なんでそうなるのか全くわからず大変苦しかったです。
式の当日には感情的に分からないことが多く、発達障害の感覚過敏まで出てしまい、ギクシャクしていました。申し訳ないことをしたと思います。
しかしこの出来事でまたひとつ、気づいたことがありました。
私は、友達が大切だからこそ「分かりたい」「共感したい」という気持ちが強くなっており、次第に「分からなくてはならない」「共感しないといけない」という義務感、強迫観念になっていたのです。これでは互いにつらい思いをします。
ただ純粋に「相手が喜んでいるから私はうれしい」「相手がうれし涙を流しているから、私はうれしい」で良かったのだと、数年後に気づいたのです。
そして今は「友達」という言葉の意味を考えなくていいと思うようになりました。相手が友達だと思ってくれたら友達で、私にとって友達だと思えばそれは友達だと決めたのです。
今の私が思う「友達」の定義は、一生一緒にいる大事な人たちという意味です。
しかしこの意味や定義を相手に押し付けず、そのとき目の前にいる相手の感情を私なりに受け取り、一緒に共存してみるという感覚から始めれば良いと感じています。
西出弥加(にしで・さやか)
1988年生まれ。「自閉スペクトラム症(ASD)」の当事者。2019年に「注意欠如・多動症(ADHD)」不注意優勢型の光と結婚。会社組織に所属するのは苦手で、フリーランスのグラフィックデザイナー・画家として文具などを作成している。描く絵は動物が多い。寝る時間が定まらないのが悩み。
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