連載
#6 コミケ狂詩曲
「江ノ電自転車ニキ」アクスタで時の人に…作った男性のまじめな思い
〝非公式サークル〟ならではの地元貢献
江ノ電と言えば、地元民と観光客の足を支える、名物ローカル線です。その動向を10年以上追い、非公式ファンサークルを立ち上げた男性がいます。列車の編成にまつわる情報や、利用客向けのサービス業務について調べ上げ、同人誌を編纂(へんさん)。気が遠くなるほど緻密(ちみつ)な記録集で、数多くの読者をうならせてきました。昨年には、沿線で起きた騒動を題材に作ったグッズが、同人誌即売会・コミックマーケット(コミケ)で話題をさらったことも。原動力は何なのか。詳しく聞きました。(withnews編集部・神戸郁人)
昨年12月末、二日間の会期で、約2年ぶりにコミケが開かれました。新型コロナウイルス流行による延期・中止を経て、ようやくやってきた再開の日。いちファンとして、筆者も会場へと赴き、参加者の様子を報告する記事を書きました。
その最終日に受けた衝撃を、今も忘れられません。きっかけは、ツイッター上で爆発的に拡散されていた、とあるサークルのグッズ画像を見かけたことでした。
Tシャツ・短パン姿で自転車にまたがり、左手を高々と挙げる、外国人男性の写真をあしらったアクリルスタンド(アクスタ)。実はこれ、江ノ電沿線の交差点で発生した、有名な騒動の一場面を切り取ったものです。
昨年8月5日夜、試運転中の旧型車両「305-355号車(300形)」の進路周辺に、いわゆる「撮り鉄」が集まりカメラを構えていました。そこに近隣に住む男性が、列車と並走しつつ通りかかり、撮り鉄の人々が詰め寄る事態になったのです。
一部始終を記録した画像や動画がネット上に出回り、いつしか男性は「江ノ電自転車ニキ(兄貴の愛称)」と呼ばれるように。その後、現場に居合わせた撮り鉄当事者が、男性のもとを謝罪に訪れたとする報道も流れました。
アクスタの写真は、騒動の当日に撮られたもので、筆者も幾度となく目にしていました。風刺か、はたまた悪ノリか。いずれにせよ、何かしらの事情があって作られたはずだ――。そう考えて、製作者に話を聞くことにしたのです。
「初めまして、よろしくお願いします」。アクスタを手掛けた、江ノ電専門の同人誌を発行するサークル「イナシュウ」。その責任者で、会社員のつじたかさん(34)が、柔和な笑みを浮かべつつ取材に応じてくれました。
アクスタが誕生した経緯を探るには、まずはつじたかさんと江ノ電との、並々ならぬ縁に触れておかなければなりません。
東京・多摩地区出身で、幼少期は「車両を見たら泣きやむほど」京王線とJR中央線に親しんだ、つじたかさん。先頭車両の、運転席のドア付近に陣取り、窓ガラス越しに流れていく景色を見るのが大好きでした。
10歳のとき、長谷駅周辺に引っ越し、江ノ電を利用するように。「乗り鉄」として全国各地の路線を踏破する一方、多種多様な塗装や広告が楽しめる、江ノ電の車両に魅入られます。そんな頃、転機となる出来事が起きました。
「大学院卒業までの6年間、鎌倉駅のコンビニでアルバイトしていました。ある日に乗った最終列車が、本来の終点である藤沢駅ではなく、稲村ケ崎駅行きだったんです。調べると、一晩同駅に留置され、翌朝に始発列車となるのだと分かりました」
その列車を「稲終(いなしゅう)」と名付けて眺めたところ、色々な発見がありました。どうやら、毎回同じ車両が使われているわけではないらしい。モーター音も違うようだ……。運用の実態に、興味をそそられるようになったのです。
大学院卒業後の2013年、ファン人気が高い車両の塗装が改められることになりました。つじたかさんは写真集製作を思い立ち、いつ、どの編成が走っているか調べようと決意します。
通勤時に車両の編成組み合わせを確認したり、SNS上に投稿される、列車の目撃情報をまとめたり。しばらく続けるうち、朝のラッシュ時間帯以降に車両交換が行われるなど、特別な事情があることに気付きました。
「仕事中は確認作業が十分にできません。そこで沿線に住む知人に掛け合い、自宅線路側の軒先にライブカメラを設置させてもらいました。風雨に備えて、百円ショップなどを何十軒も回り、カメラを入れるタッパーを調達したんです」
つじたかさんは、「稲終」にちなんだサークル「イナシュウ」として、同年冬のコミケに参加。運用情報を整理した冊子を、写真集とセットで頒布すると、80部が約3時間ではけました。この結果を受け、より詳しい調査へと乗り出します。
江ノ電の一日当たりの編成組み合わせは、全部で225通りあります。それを確定させるため、日中に走る6本の列車を、さながらくじを引く感覚で観察する……。「ギャンブルめいた快感に段々溺れていった」と、つじたかさんは苦笑します。
そして2018年夏のコミケで、「編成別充当日数」「編成休みローテーション表」といったコンテンツを載せた同人誌を準備したところ、見事完売したのです。
更に2019年、江ノ電ファン11人と合同誌を作り、翌年発行の第3号では、過去10年に沿線で起きたことを日ごとにまとめました。既刊3冊のいずれも、鎌倉市図書館や地元書店に納本し、マニア以外の層にも受け入れられています。
つじたかさんが活動を続ける背景には、江ノ電ならではの「テーマパーク的な楽しさ」に惹(ひ)かれてきたことがあります。象徴的なのが、同社の自由な気風です。例えば、同人誌第3号の10年史には、こう書かれています。
つじたかさんいわく、江ノ電では駅ごとに独自の取り組みを行う場合があります。駅員が利用客向けサービスを考案する習慣が根強いためです。一押し企画について聞くと、長谷駅ホームに設置された列車用の窓洗浄液「長谷液」を挙げました。
長谷液のボトル表面には「甥(おい)っ子が、知らぬ間にアイドルデビューしていた」など、駅員お手製のメッセージシールが貼られています。定期的に文面が更新され、つじたかさんも2015年に見つけて以来、楽しみに見ているそうです。
「2018年12月15日、”My Mother is my mother.”を和訳せよ、という一文が登場しました。訳が分からず駅員さんに尋ねると『私のママはわがまま(我がママ)だ、です』と(笑)。こうやってお客との接点を増やしているのか、と驚きました」
利用客を楽しませようとする社員のひたむきさと、住宅街から海辺にまたがる彩り豊かな沿線風景の、稀有(けう)なマリアージュ。そんな組み合わせは、他の路線で味わうことがなかなかできないと、目を輝かせながら教えてくれました。
江ノ電に無償の愛を注いできた、つじたかさん。それゆえに、冒頭で触れた騒動には、心を痛めていました。同時に、江ノ電の移り変わりを見守ってきた立場から、何らかの形で残せないかと考えたといいます。
「沿線住民には陽気な人が多い。男性がカメラを向けられ、写真のような対応をした点にも納得できました。2021年を代表する出来事であり、記録したいと考え、アクスタ作りを思いついたんです。風刺などの意図は一切ありません」
そして昨年12月、写真の撮影者と共に、男性が経営する飲食店を訪れます。コミケでアクスタをお披露目したいと伝えると、「事情が分からずポーズを取ってしまったことを(撮り鉄の人々に)謝る機会になるなら」と協力してくれました。
コミケ当日は、男性もサークルの売り子として来場。記念撮影を望む参加者が殺到し、80個持参したアクスタも約1時間で売り切れました。男性は混雑を招いたことを周囲のサークルに謝罪し、同人誌を買って回るなど気を遣っていたそうです。
アクスタは男性の飲食店でも取り扱っており、現在に至るまで、遠方から購入に訪れる人が後を絶ちません。結果的に、店舗の認知度や売り上げの向上につながっている部分もあるといいます。
「江ノ電沿線は人気エリアで、建物の賃料が決して安くない。ウイルス流行の影響で客足が遠のき、潰れてしまうお店も多いんです。そうした中で、少しでも経済を回すお手伝いができているなら、うれしく思います」
イナシュウの活動は、マニアックな視点を、地域貢献にも活かしていると言えそうです。こうしたスタンスには、日常を尊びたいという、つじたかさん自身の思いが反映されています。
「2011年、京王線の6000系という車両が引退することになりました。幼い頃に何度も乗った、愛着ある電車です。それまでは意識さえしていなかったのですが、毎日のように写真を撮りに行くようになりました」
「当たり前すぎて、気にも留めないような光景も、いつかは失われてしまう。そんな現実を痛感させられ、もっと思い出をつくれば良かったと、後悔した経験です。このことが、江ノ電関連の記録を取ることにつながっています」
そして自主的な取り組みだからこそ、公式には残らないような情報も、次世代に伝えられると強調しました。
「何百年先の読者が目を通しても、『昔の江ノ電ってこんなに楽しかったんだ』と感じられるような冊子を作る。それは、非公式の立場だからこそできることです」
「私自身、先人たちが残してくれた列車の資料写真や動画を見て、好奇心を大いにかき立てられてきました。その人だけの江ノ電史をつくるための一助になれるよう、後世にバトンをつなぐつもりで、これからも歩き続けていきたいですね」
小さいとき「電車になりたい」と願い、車両の展示施設に通うほど、鉄道が大好きだった筆者。しかし成長と共に興味が薄れ、気付けば、数ある交通機関の一つと捉えるようになっていました。
それだけに、つじたかさんが、執念とも言うべき知識欲を江ノ電に向け続けていることに、新鮮な驚きを覚えています。とりわけ感銘を受けたのは、サークルの活動が、地域社会の未来を見据えたものである点です。
イナシュウの同人誌を一読すると、近隣の高校の卒業式に合わせて記念乗車券を発行したり、沿線住民優先の入場機会を実験的につくったりと、同社が手掛けるローカル向けサービスが紹介されているのに気付きます。
既刊には、江ノ島駅前の車止めに施されたスズメ型彫刻「ピコリーノ」に、有志が手作りの衣装を着せていることを紹介する記事も。観光客目線では分かりにくい、鉄道事業者と住民の信頼関係を、シンボリックに教えてくれる企画です。
鉄道と地元との結びつきは、その土地に住まう人々にとって、えてして自明なものです。あえて注目しようという機運は盛り上がりづらく、いずれ思い出される場面も少なくなってしまうでしょう。
だからこそ、全てを記録したいと考える第三者の存在が重要となります。その意味で、江ノ電にまつわる物事をくまなく観察し、事実を書き留めていくつじたかさんの取り組みは、まさに地域史を紡ぐプロセスだと感じました。
アクスタ誕生のきっかけとなった騒動が、鉄道ファンに対する風当たりを強めた部分はあるかもしれません。しかし大多数の当事者は、純粋に列車を愛し、運行事業者や周辺住民に敬意ある態度で接しています。
そしてファンの人々は、強い情熱によって、時代の空気を次世代に伝えるという、尊い役割を果たす主体でもある。そんな実感が得られる、貴重な取材となりました。
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