連載
#1 10人の沖縄
夜の町には札束がバンバン、それが一転……沖縄の商店街に起きたこと
「コザの生き字引」の復帰50年
那覇バスターミナルから1時間弱。国道330号線沿いにある胡屋のバス停で降りると、コザの中心街に到着します。このエリアには二つの代表的なストリートがあります。
一つは嘉手納基地のゲートから一直線に続く「ゲート通り」。そして、もう一つがかつてセンター通りと呼ばれた「中央パークアベニュー」です。一歩足を踏み入れると、歩道を覆う白いカプセル型の屋根が続く街並みが眼前に広がります。
この場所で生まれ育ち、現在も沖縄市センター商店街振興組合で働く仲村さんは、地元では「コザの生き字引」と称される人物の一人です。
「28歳のとき、センター通りの幹部に呼ばれて、事務の仕事をやってくれと唐突に言われました。『私、何もわかりませんよ』と答えても、『いいから、大丈夫さー』と丸め込まれて(笑)。それから40年以上、ずっとここに勤めています」と、仲村さんは苦笑しながら経緯を話します。
仲村さんは1951年生まれ。母親がセンター通りでAサインバーを経営していました。Aサインとは、復帰前の沖縄で米軍が発行していた飲食・風俗営業許可証のことで、これを掲げた店舗をAサインバーなどと言います。
仲村さんが小学校に上がる前にベトナム戦争が開戦し、大勢の米兵が嘉手納基地にも駐留しました。それによってコザはバブル景気に沸き、夜の町には札束がバンバン飛び交い、仲村さんの実家も繁盛しました。このころの町の熱狂を仲村さんは楽しそうに回想します。
「クリスマスと正月は、僕らにとっても小遣い稼ぎのチャンス。クリスマスイブに米兵が基地からどっと出てきて、どんちゃん騒ぎをする。12月25日の朝は4時か5時に起きて、みんなで道路を歩くんです。コインやお札が落ちているので、それを拾ってね。元旦も同じ。朝になるとみんな一斉に町に繰り出して。そういった記憶がありますよ」
子どもたちにとって、米国は豊かさの象徴でした。こんなこともあったと仲村さんは明かします。
「クリスマスの時期には、基地からヘリコプターが小学校のグラウンドに飛んできて、中から出てきたサンタクロースが全児童にプレゼントを配りました。僕が通ったコザ小学校だけで1200〜1300人の児童がいましたが、他の学校にも訪れたんじゃないかな」
そんな環境で高校までの多感な時期を過ごした仲村さんは、熊本の大学に進学。ちょうどそのときに沖縄は本土復帰を迎えました。
「まだ学生だったので、復帰して沖縄がどうなるか深く考えることはありませんでした。(復帰2年前の)コザ暴動の時も熊本にいました」
「沖縄にいなかったからかもしれませんが、ニュースを見てもそんなに大変だとは思いませんでしたね。それよりも、(1972年の)連合赤軍のあさま山荘事件の方が衝撃的でした。リアルタイムでずっとテレビを見ながら、内地はすごいんだなと思いましたよ」
沖縄の本土復帰についてはそれほど感慨はなかったという仲村さんですが、卒業してコザに帰ってきたら、センター通りの雰囲気がガラリと変わってしまったことは印象に残っています。
「この通りは、ベトナム戦争が終結した後、潮が引くように寂れました。通りを歩いているのは犬しかいないと言われるくらい。通りの店々もあまり稼げない状態が続き、このままじゃいけないと、『基地依存脱却』といったフレーズを掲げて町を変える動きが見られ始めました」
とはいえ、まだまだ米兵相手にした商売の需要はありました。仲村さんは地元の企業に就職しましたが、しばらくして母親が亡くなったため、店のオーナーを継ぐことに。
昼間は会社員、夜はバーの経営者という二足のわらじ。会社の給料が月給7~8万円だったのに対して、店の収入は月20万円。「これはバカらしいなと、さっさと会社を辞めました」と仲村さんは笑います。
最もかき入れどきだったのは、米軍の給料日である「ペイデイ」。ペイデイの後の週末は、米兵は大挙して町に押し寄せては酒を浴びるように飲みました。
売り上げも桁外れで、店のレジにお金が入り切らずに、隣に置いた箱の中にドル札を放り投げていたそうです。こうしたペイデイの光景は以前からも見られていましたが、ベトナム戦争の時とは少し様相が違いました。
「昔の米兵は、明日戦地に行くからお金を持っていても仕方ないと、盛大に使い切っていました。僕がオーナーをやっていたころの米兵はちょっとケチで、安くお酒を飲んで、とにかく女の子を口説きたいという人が多かったです」
そこは店も百戦錬磨。逆手に取って、店ぐるみで米兵からお金を巻き上げたのは一度や二度ではないそうです。危険な目には遭わなかったのでしょうか。
「いえいえ、日本に復帰していたから安心でした。ジャパニーズポリスを呼ぶと言ったら、すぐに店を出ていきました。復帰前はミリタリーポリス(軍警察)だったので、そうはいかないことも」
「ただ、彼らは棍棒を携帯しているので、悪さをした米兵が叩かれているのをしょっちゅう見ました。まあ、復帰後はコザもだいぶ穏やかになりましたよ」
サラリーマンの数倍も稼ぐことはできましたが、夜の仕事は体力的にもきつくなったため、仲村さんは1年ほど経った後、知人に店の権利を譲りました。そんな矢先のことです。
センター通りを再開発して新たな商店街をつくる話が持ち上がり、1978年12月に沖縄市センター商店街振興組合が設立されました。ところが、事務局の担当者が急に辞めたため、どういう理由か仲村さんが幹部に呼ばれて、「君がこっちを手伝いなさい。この計画が進んでいるから、あんたの方でやってくれ」と、取り付く島もなく組合で働くことになりました。
関わることになったものの、右も左もわからずに苦労しました。補助を受けている沖縄県庁に頻繁に呼び出されては、事業計画書を前に「お前大丈夫か?」と詰められました。
次第に気の毒に思ったのか、県の職員も手助けしてくれるようになり、1985年4月、商店街開業にこぎつけました。同時に、センター通りも現在の中央パークアベニューに名称変更。その直後に到来した日本のバブル経済の追い風もあり、商店街は大いににぎわいました。
「全国から視察がたくさん来ましたね。また、那覇の国際通りや平和通りにあった専門店がこぞってこっちに移ってくるなど、当時のファッションの最先端がこの商店街にありました」
喜びもつかの間、バブル崩壊によって撤退する店舗が急増し、一気に町の活気はなくなりました。そうした中で、起死回生を図ろうと浮上した計画が、「コリンザ」という複合商業施設の立ち上げです。沖縄市、沖縄県、それに組合が主体となって第三セクターをつくり、運営に当たりました。
ところが、当初の目論見は外れて、開業してすぐに赤字。負債はどんどん膨れ上がり、最終的には約40億円に上りました。
その責任を負わされた一人が仲村さんでした。債権者への対応を毎日のように繰り返すタフな日々を送ったほか、個人でも約1億円の借金をしたり、裁判を経験したりしました。
「以前、町の先輩から借金をしないと人間は大きくならんよと言われました。本当に借金したら、どんなに最悪だったことか……。三十数年間、借金地獄。ずっと借金を返済する人生でしたよ。今となっては、よくそこから抜けられたなと思いますよ」
個人では壮絶な体験をした仲村さんですが、沖縄のこの50年をどう見ているのでしょうか。
「コロナ前夜の沖縄が一番輝いていたのでは。観光客数が1000万人を突破しました。まさか、ハワイと肩を並べるなんて考えもしなかった」と喜ぶ半面、沖縄の課題も指摘します。
「第2次産業が今でも育っていない。その辺が沖縄の一番の弱点。ずっと続いている。国からの交付金で(道路などの)インフラは確かに素晴らしいものができましたが、生産力がない。沖縄の人はのんびり屋さんが多いのはいいけど、他との競争など厳しさの面では弱いところがあるかもしれない」
現にコロナ禍では、沖縄の基幹ビジネスである観光業や、それにひもづく飲食業などは壊滅的な打撃を受けています。ただし、コロナという“毒薬”を与えられたことで、沖縄が次のステップに進む良いチャンスだと仲村さんはとらえています。これはセンター通りも同様です。
仲村さんによると、センター通りは15年周期で景気がアップダウンしており、実は今がちょうど成長するタイミングにあると、前向きに考えています。
「これから15年かけて少しずつ伸びていくのかな。区画整理によって今後、一方通行の道路が相互通行に変わるのも良い兆し」
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