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お金と仕事

「43歳で会社員」女子バスケのレジェンドが選んだセカンドキャリア

「会社での学びをバスケ界につなげる」

富士通時代の矢野良子さん(右)=2008年2月10日
富士通時代の矢野良子さん(右)=2008年2月10日

目次

元日本代表バスケットボール選手の矢野良子さんは、昨年末、24年間の現役生活に幕を閉じました。実業団に入った当初、まさかこの年まで現役を続けるとは思っていませんでした。トレーニング技術の向上もあって延びた選手人生。その最終盤は3人制バスケ3x3の女子リーグの立ち上げなどに走り回りました。そして、引退後に選んだのは会社員。「バスケしかしてこなかった」という矢野さんに、43歳で「会社員」になった今を聞きました。(ライター・小野ヒデコ)

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矢野良子(やの・りょうこ)
1978年、徳島県生まれ。徳島県立城北高校卒業後、97年にジャパンエナジー(現・ENEOS)に入団。Wリーグ優勝4回、全日本総合選手権大会(以下、皇后杯)優勝6回を経験。2005年富士通に移籍し、08年から1年間プロ選手として活動。Wリーグ優勝1回、皇后杯優勝3回に貢献。09年にトヨタ自動車に移籍し、皇后杯優勝1回の実績を残す。17年から3人制バスケ3x3(スリー・エックス・スリー)選手に転向。20年の3x3日本選手権にて、女子選手のMVPを獲得。東京五輪後の21年に引退。現在はトヨタ自動車スポーツ強化・地域貢献部に所属し、B.LEAGUE所属のアルバルク東京の関連事業などを担当。
 
コロナ禍、オンライ取材に応じてくれた元バスケットボール選手の矢野良子さん
コロナ禍、オンライ取材に応じてくれた元バスケットボール選手の矢野良子さん

38歳で3人制バスケ選手に転向

“私、矢野良子は24年間のバスケット人生に終止符を打ちました。
十分過ぎるほどやり切りました!!
もうお腹いっぱいです!!“

2021年12月20日、43歳の誕生日の日に、元バスケットボール選手の矢野良子さんは自身のSNSを更新しました。

矢野さんが初出場した五輪大会は、24歳の時のアテネ五輪。「引退前にもう一度五輪に出たい」との思いがあり、38歳の時に5人制から3人制バスケ3x3(スリー・エックス・スリー)の選手に転向しました。

「年齢が上になるにつれ、日本代表選手に選出される機会がなくなっていきました。そんな中、2016年のリオ五輪で3x3が種目に入るかもしれないとの噂を聞きつけたんです。3x3選手として活動することで、再び五輪に出られる可能性を感じました。そして、五輪競技になるのなら早めに始めた方がいいと思い、転向を決意しました」

当時、Wリーグ(日本バスケット女子リーグ)のトヨタ自動車アンテロープスに所属していた矢野さん。Wリーグと並行して、3x3選手としても活動できたらと考えました。ところが、国内では3x3知名度は低く、競技をする基盤がない状態でした。

「両立など甘いことができる状況じゃなかった。生半可な気持ちでやっても、3x3は日本で普及しない。そこで、3x3一本でやることを決意しました。3x3のルールや、日本での動きを調べる中で、そもそも大会があまりない現実を知ったんです。だったら、大会を作ろうと思い、3W(トリプルダブル)という3x3の女子リーグを作りました。やると決めたら突っ走る性格なんです」

矢野良子さん(左)=2007年1月7日
矢野良子さん(左)=2007年1月7日

「数十件回って、1件取れたらラッキー」

女子リーグ設立の原動力になったのは、「2年後に結果を必ず出す」との強い思いでした。東京五輪後の引退を決めていたため、「1分1秒も無題にしたくなかった」と振り返る矢野さん。

3x3選手として五輪代表選手になるためには、一定のポイントが求められます。そのために、3x3選手として実績を残し、ポイントを稼ぐ必要がありました。

「リーグ設立を考えた当時から、五輪に出場するには日本のランキングが低く、そして、個人のポイントも基準に全然足りていないことはわかっていました。限られた時間しかない中で、3x3の大会を作り、日本人選手のポイント獲得及び、自分のポイントを得て、日本のランキング向上を図りました。そのために、私は“人”を頼りました。何年も連絡をとってない人に連絡をし、思いを訴えました。3x3の説明をはじめ、3x3選手に転向したこと、そして、アスリートとしての最後の目標に、五輪大会出場を目指していることを熱く語ったんです」

1日最低でも1、2件はアポを取り、「スポンサーを紹介してください」、「スポーツに興味がある人を紹介してください」と聞いて回ったと話します。

「数十件回って、1件取れたらラッキーという感じでしたね。スポンサーは数打たないと当たらないので、とにかく足を動かしました」

協力してくれる人がいた一方、中には利用されていると感じたことや、進むペースの遅い案件をやむなくて諦めたこともあり、酸いも甘いも経験したと話します。

その結果、3x3の女子リーグを設立し、2020年の3x3日本選手権では女子選手MVPを獲得しました。しかしながら、結果的に「引退前にもう一度五輪に出る」という夢を叶えることはできませんでした。

そして矢野さんは、24年間のバスケ選手としてのキャリアに、終止符を打ちました。

富士通時代の矢野良子さん(右)=2008年2月10日
富士通時代の矢野良子さん(右)=2008年2月10日

会社員の道を選んだ理由

2009年にトヨタ自動車に移籍した際、契約社員として入社した矢野さん。移籍当初は、引退後に会社に残ることは考えていなかったと話します。

「当時、契約社員の選手が引退後に雇用される社内制度はありませんでした。でも、会社がアスリートのセカンドキャリアを考え始めたこともあり、契約社員の選手でも、希望をしたら引退後に正社員として会社に残れるように変わっていきました」

高校卒業後、18歳で実業団チームに入団した頃は、27歳くらいで結婚して、30歳で出産してという漠然としたイメージを抱いていたと矢野さんは振り返ります。そのライフプランは、将来の夫に養ってもらうことが前提でした。

「それが、世の中のトレーニングが進化して、全体的にアスリートの競技人生が長くなっていきました。引退を考えていた27歳に近づいた時、引退も結婚も考える余地はありませんでした。『まだバスケを続けよう』と思ったんです」

その後、42歳になるまで現役を続けた矢野さん。引退後、起業を考えたこともありますが、最終的にはトヨタ自動車の会社員として働く道を選びました。その理由は二つありました。

「一つは、社会に出るには、自分には足りないものが多すぎると思ったことです。私はこれまでバスケしかしてきませんでした。大学も行っていないし、教職の免許も持っていない。なので、一度会社に入って、社会がどういうものかを知るのは、良い機会だと思ったんです。会社からも『残っていい』と言ってもらえたので、学びも含めて残ってみようと思いました。もう一つはコロナの影響です。独立して、バスケ界に残り、引き続き3x3関連の仕事やバスケ教室を開くことも考えましたが、気軽に人を呼んで開催できる社会ではなくなってしまいました。安定した収入を得るのが難しいと考え、就職の道を選びました」

2021年10月、トヨタ自動車スポーツ強化・地域貢献部への配属が決まった矢野さん
2021年10月、トヨタ自動車スポーツ強化・地域貢献部への配属が決まった矢野さん

今は情報を取りにいける時代

矢野さんの現在の主な仕事内容は、同社子会社のバスケットボールチーム「アルバルク東京」の関連事業や、同社副会長の早川茂氏が委員長を務めるスポーツ庁管轄のスポーツ審議会に関する事務です。

「まだ見習い程度で、何かのプロジェクトに入っているわけではないんですが……」。会社員としては働くのは初めてで、ビジネスメールの書き方や、社内システムの使い方、ビジネス上の適切な言葉選びに四苦八苦する毎日を送っているそうです。

「私は1978年生まれで、パソコンの黎明期、SNSもなかった時代に育ちました。今は、自分から情報を取りに行ける時代です。もしPCスキルがないのであれば、パソコン教室に行くこともできます。3x3の事業をしていた際、スポーツビジネスの勉強をするために、セミナーなどによく参加していました。後輩選手には、まずは将来の人生設計をしてみて、足りないところの情報を取りにいってみるのもいいかもしれないと伝えたいです」

現役アスリートは引退したけれど、バスケへの貢献、そして3x3への普及は引き続きしていきたいと考えています。

「会社での学びを、今後、バスケ界の盛り上がりにつなげていくのが理想です。私自身、今も3x3の女子チームを運営しています。選手たちが活躍できる環境を作っていきたいので、仕事との両立を続けていきたいと思っています」

取材を終えて――自身の「当たり前」を洗い出してみる

矢野さん世代の女性選手は、競技生活と就職や結婚を両立できない “トレードオフ”の時代に活動していました。現在は働き方が多様化し、競技と仕事、両方取り組めるデュアルキャリアを築く選手が増えてきています。

最近では女子バスケット選手の髙田真希さんが、会社に所属しながらも起業をしました。企業が選手個人を応援する時代になってきたとも感じます。

バスケット経験者の筆者にとって「レジェンド」的存在の矢野さんですが、「世の中的にはそうではないです。東京五輪の女子バスケのように、メダルを取っていたら違っていたかも」と言います。

引退後に個人名で活動し、活躍するのは五輪メダリストなど「トップ・オブ・トップ」の人のみ――。この現実は、これまでアスリートのセカンドキャリアを取材して感じたことでした。

将来はバスケ界を盛り上げたいという目標達成のため、まずは会社員になって経済面での安定やスキルアップ、人脈を築く。矢野さんのように、就職を自己実現のための準備期間と捉える方法もあるのだと感じました。

現役時代に新リーグをゼロから立ち上げたことについて、「(事業計画書など)そういうことは1ミリもわからなかった。とりあえず走ろうと思った」と振り返った矢野さん。この「0から1」を作った経験は、プロジェクト担当になった際などの仕事面で生きるはずです。

以前、取材した元バレーボール選手の朝日健太郎さんは「僕はPDCAという言葉をバレーボール選手引退直前に知ったのですが、現役時代、無意識にしていたことが具現化された感じです」と言っていました。

現役時代の経験や、ルーチンでさえも、仕事に生きることがある。自身の「当たり前」を洗い出してみると、引退後のキャリアにつながる要素を発見できるかもしれません。

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