連載
#4 記憶をつなぐ旅
バウムクーヘン発祥の島に突如おりてきた指令「患者受け入れ準備を」
77年前、1万人が運ばれてきた惨劇

日本のバウムクーヘンの発祥の地――。そんな風に呼ばれる、広島湾に浮かぶ似島。伝染病の流入を防ごうと19世紀末以降、軍人たちの検疫所が設けられ、捕虜収容所も設置されていました。遠足などで訪れ、自然に親しむ子どもたちも多い島。77年前の朝、ある指令がおりてきて、壮絶な光景が広がったといいます。
戦争の捕虜が広めたバウムクーヘン
似島は広島港(宇品旅客ターミナル)からフェリーで20分ほどで到着します。富士山に姿形が似た山「安芸小富士」があり、「似島」と呼ばれるようになったともいわれます。

1919年(大正8年)、捕虜の作品展示即売会で菓子作りの担当になったカールは、材料集めに苦心しながらバウムクーヘンを焼き上げました。広島県物産陳列館(現在の原爆ドーム)で製造販売されたといいます。

そんな菓子の誕生から26年後、帰還兵の減少とあわせて検疫の作業も減っていた似島に、広島本土の司令部から突然、指令がおりてきます。
「医療班を待機させ、500人の患者を受け入れる準備を」
1945年8月6日朝のことでした。
この時から、似島は膨大な被爆者の治療にあたる「野戦病院」の島となったのです。
朽ち果てつつある戦跡
似島の「学園桟橋」という船着き場で、似島に住む宮崎佳都夫さんと待ち合わせました。

学園桟橋のそばには、戦跡の位置を示す看板がありましたが「島の戦争遺跡はどんどんなくなりつつある」と危機感を募らせます。

帰還兵の検疫所だった似島
似島が戦争に利用されたのは1895年、検疫所が設けられたのが始まりです。コレラなどの伝染病が本土に入ってこないように、戦闘地域から戻ってきた軍人や軍属の検疫所がつくられました。
原爆の爆心地から約8kmで検疫所に医薬品の蓄えがあったことから、原爆投下の当日から「臨時野戦病院」となりました。20日間でおよそ1万人が運び込まれ、薬はすぐに底をつき、被爆者は治療のかいなく亡くなっていったといいます。
まず宮崎さんが連れていってくれたのは、第一検疫所が使っていた2本の桟橋です。日清・日露戦争以降は帰還兵の出入りに使われました。

釣りスポットでもある似島は、海沿いの道で多くの釣り人が糸をたらしていました。サイクリングで訪れる人も多いといいます。

島の北部に進むと、検疫所で出た感染物などを焼却する炉の煙突が残っていました。波に削られ、木に埋もれており、宮崎さんの案内で訪れなければ、その歴史に気づくことは難しいと感じます。
似島に運ばれてきた被爆者
原爆の爆風ではガラスが割れるなどの直接被害しかなかった似島では、爆心地周辺で何が起きたのか当時は分かっていなかったそうです。

宮崎さんは「海に多くの船が見え、押し寄せるように負傷者がやってきたそうです」と振り返ります。大やけどを負った女性や子どもがたくさんいたそうです。

あっという間に検疫所は被爆者であふれ、すのこの上や軒下、木の下にも患者が横たわりました。

やけどや外傷のない患者にも、血便や高熱といった症状が起き、それが後に「急性放射線障害」だったと判明します。
当時、診療に当たったのは旧暁6165部隊。隊長を務めた軍医の西村幸之助氏は、こんな言葉を残しています。

「手術のできなかった人は、その後まもなくみんな死亡されました」
「この戦争でいろんなひどい患者を見てきました。しかし広島の原爆被害者のようにひどい人たちをみたことはありません。傷のひどさ、人数の多さはとくにひどく、赤ちゃんからお年寄りまで人を選んでいません」
(広島市似島臨海少年自然の家 平和学習資料より)
遺体が火葬された焼却炉
被爆者の遺体を火葬するのもままならず、検疫所の近くにまとめて埋められました。戦後、焼却炉周辺からはたくさんの遺骨が掘り起こされました。その焼却炉のひとつが、臨海少年自然の家の一角に移設されています。

8月下旬までに生きて似島から他の場所へ移された被爆者は、2~3千人ほどだったといわれています。

「次世代に伝われば」

ふらりと訪れた観光客も、説明板やガイドツアーがあれば、学べる機会も多いのでは――。
そう宮崎さんに問いかけると、「例えば『桟橋』は国有財産でこちらが何かすることはできない。管理を団体に任せてもらば、説明版を作ったりお世話したりできます」と指摘します。

「微々たる力でも、次の世代に伝わればいいなと思います」
◆広島・似島の旅の楽しみ
似島臨海少年自然の家ではバウムクーヘンを焼き上げる体験ができます。入り口に「菓子伝説の地へようこそ」との看板がありました
似島臨海少年自然の家の展示コーナー。似島の歴史を学ぶことができます
広島市内ではさまざまなお好み焼きが楽しめます
東京駅からは新幹線で約4時間。広島空港からは広島市中心部のバスセンターまで、高速バスで約1時間。
広島港(宇品旅客ターミナル)からフェリーで20分ほど。
※戦跡の集まる「学園桟橋」側には、似島汽船で3回しか発着がないため注意が必要
旅の予定:似島の戦跡めぐりは、似島臨海少年自然の家の「平和学習」のページが参考になります。
◆この記事は、withnewsとYahoo!ニュースの共同連携企画です。