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お金と仕事

「会社のお金を使って…」五輪挫折のセーリング選手が見つけた居場所

鍛えた洞察力のスポーツ界の人脈

会社員とセーリング選手を両立する渡邊哲雄さん(右)=一般社団法人日本スナイプ協会提供
会社員とセーリング選手を両立する渡邊哲雄さん(右)=一般社団法人日本スナイプ協会提供

目次

風を読み、相手の心理を読み、舵をきる。そんなセーリングを「リスクマネジメントの競技」と話すのは、会社員とセーリング選手を両立する渡邊哲雄さん(43)です。選手として五輪出場を目指すも、挫折。その夢は、「自社の選手を東京五輪に」へとスライドしました。会社のお金を使って競技をさせてもらうという環境で見つけた、選手ができる貢献とは? 10年のデュアリキャリアについて聞きました。(ライター・小野ヒデコ)

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渡邊哲雄(わたなべ・てつお)
1978年東京都生まれ。父親がセーリングをしていた影響で、幼少期からセーリングを始める。大学卒業後、高校の教員を務めながら競技を続ける。2006年に教職を退任し、08年にリスクマネジメントの会社「エス・ピー・ネットワーク」に就職。同社「セーリングチーム」(ヨット部)では、選手兼若手選手のマネジメントを務め、現在はキャプテンを務めている。13年、15年、17年に全日本実業団ヨット選手権大会優勝、15年と20年に全日本スナイプ級ヨット選手権大会優勝。
 

風向きと相手の心理を読む

セーリングとは幼少期に出会いました。父が子ども向けのセーリング教室を開いていたため、物心ついた頃には私もヨットに乗っていました。

セーリングは「経済的に余裕のある人がするスポーツ」と思われる人もいると思います。本格的に競技に打ち込む場合はヨットの購入が必要になりますが、習い事の場合、スクールの料金は一般的なスポーツクラブに通うのとさほど変わりません。

競技の主な特徴は2点あります。一つは種目が数種類あり「◯◯級」と分かれていること。私は五輪出場枠のある「男子470級」(読み方:よんななまるきゅう)で長らくプレーをしていました。

男子470級は、全長約5mのヨットを男性ペアと2人で操縦し、海上に設置された指定のルートをできるだけ速く回り、その順位を競います。数日かけて10レースを走り、その総合結果で勝敗が決まります。

もう一つの特徴は、自然の中でライバル選手たちと競い合うこと。風向きを探り、相手の心理を読む必要性があるため、ゲーム性が高い。同時に、いかにリスクヘッジをしていくかが鍵となります。

ヨットが進む動力は「風」と「波」が基本となります。今でこそ、天気予報アプリがあるため事前に風力をはじめ、風の方向性を高確率で予測できますが、20年ほど前はそのような便利ツールはありません。試合の前は、事前に現地に乗り込み、風や波を予測して臨んでいました。

セーリング選手であり会社員でもある渡邊哲雄さん。休日は、子ども向けのセーリング教室を開いている。
セーリング選手であり会社員でもある渡邊哲雄さん。休日は、子ども向けのセーリング教室を開いている。

仕事か競技かの二者択一

元々、漠然とセーリングで五輪出場したいという思いがありました。ただ、五輪出場をする選手のほとんどは、セーリング部の実業団を持つ大手企業の所属です。学生時代に好成績を打ち出すトップ選手が、実業団のある大手企業に新卒入社するのが主流です。就職氷河世代だった私の時代は、トップオブトップの選手でないとアスリート採用に至りませんでした。

私はそのレベルではなかったのと、教職にも興味があったため、和歌山の高校でキャリアをスタートさせました。

仕事はやりがいがあった一方、競技の方はイマイチ。ペアの選手は福岡在住だったため、なかなか一緒に練習をする時間が取れなかったんです。海外の大会はもちろん、国内でも満足する結果を残せずにいました。五輪大会への出場は、夢のまた夢でした。

さらに、セーリングの大会は海外が基本となるため、1年のうちの3分の1は、日本を離れる必要がありました。そうなると、実質的に仕事との両立が難しくなります。校長先生から「(仕事か競技か)どっちかにしてほしい」と言われたのを機に、競技に専念する決意をしました。

退職と同時に、ペアが住む福岡に拠点を移すことに。五輪出場には、練習時間の確保が必要と思ったからです。そして、レースの参加条件となる日本セーリング連盟に登録し、日本代表になれるチャンスのある「ナショナルチーム」の選考に通ることを目下の目標としました。その選考に通ると助成金がもらえることも、無職だった私にとって希望の一つになりました。

練習に日々打ち込む中、偶然、ライバル選手に大学時代の後輩がいました。彼の所属先が、後に私が就職するエス・ピー・ネットワークでした。入社の決め手となったのは、同社の渡部洋介会長(当時は社長)自身がセーリングをしていること、実業団チームがあり、部を拡大するタイミングと重なってオファーをいただいたこと。そして、その時はペアを解散していて、東京に戻りたいと考えていました。本社が東京で、江の島を活動拠点にできることも後押しになりました。

雇用形態は、仕事と競技を両立する正社員採用でした。もしナショナルチームに入れたら、フルタイムで練習できる条件も汲んでもらい、2008年、30歳の時に入社しました。

エス・ピー・ネットワークの渡邊さん(左)は「スナイプ級では “Serious Sailing  Serious Fun ”(本気でセーリングし、本気で楽しむ)」という世界共通の合言葉がある」と話す=一般社団法人日本スナイプ協会提供
エス・ピー・ネットワークの渡邊さん(左)は「スナイプ級では “Serious Sailing Serious Fun ”(本気でセーリングし、本気で楽しむ)」という世界共通の合言葉がある」と話す=一般社団法人日本スナイプ協会提供

五輪出場の挑戦に「幕」

しかし入社直後、待ち受けていたのはリーマンショックでした。たちまち会社の業績は悪化し、ヨット部の存在自体が危ぶまれるほどに。

そのため、練習は業務時間外の土日、国際大会出場は個人でのエントリーとならざるを得なくなりました。入社前と話は違ったのは事実ですが、会社も全従業員も厳しい局面に立たされている状況です。その現実を受け入れました。

それでも、経済が徐々に回復していく中、遠征費などのバックアップを得ながらセーリングをする環境を与えてらもえたことは非常に大きかったです。

転機となったのは、2011年12月にオーストラリアで開催した世界選手権でした。ロンドン五輪の選考会も兼ねている大会で、体力的にも年齢的にも、これが最後の五輪挑戦になる思いで臨みました。結果は敗退。このタイミングで、私は五輪への挑戦に、自ら幕を下ろしました。

それでも、競技を続けようと思ったのは、次世代を育てたいとの思いが芽生えたからです。五輪出場種目「470級」としての選手は引退しましたが、会社の実業団に置かれている「スナイプ級」の選手に転向しました。

そのタイミングで部署も「総合研究室」(現、総合研究部)というコンサル部門への異動となり、競技も仕事も心機一転のスタートとなりました。転職を考えたこともありましたが、会長からの「引退後も会社に残って好きな競技を自分のペースで続けていってほしい」とのメッセージに、残ることを決めました。

セーリングは1900年開催の第2回パリ五輪から競技種目になっている歴史あるスポーツ。1996年アトランタ五輪から「ヨット」から「セーリング」に名称が変更となった。
セーリングは1900年開催の第2回パリ五輪から競技種目になっている歴史あるスポーツ。1996年アトランタ五輪から「ヨット」から「セーリング」に名称が変更となった。

「意外にいい人だね」

今ではデュアルキャリアという言葉が浸透し始めていますが、10年前は「スポーツか仕事か」の二択の考え方が一般的でした。会社からお金をもらって競技をするため、今でも社内外から“特別扱い”の目で見られることもありますが、それは事実なのでしょうがないとも思っています。

その一方で、「自分たちが競技において実績を出せば、会社の知名度向上に貢献できる」との思いを持ち続けていました。

私はこれまで6回の異動経験があります。時には、異動先で「ヨット部ってどんな人かと思ったら意外にいい人だね」と言われたこともありました。一緒に仕事することで、ヨット部がどんな組織で、どんな選手たちがいるのかを知ってもらう機会となりました。地道ですが、信頼関係を少しずつ築くことができたと思っています。

正直、入社してからの10年はきついことが多かったですが、めげなかったのは会社のトップであり、部の監督でもある会長の存在があったから。「ヨット部のやつは仕事ができる」とよく吹聴していて(笑)。そう言われたら、その言葉を裏切る訳にはいきませんよね。その期待に応えるべく、仕事も競技も一心に取り組みました。

「以前、会長からオリンピックにこだわる理由の一つに、『従業員が自分の家族に「こんな会社で働いているんだ」と胸を張れるような会社でありたい』と言われた」と渡邊さん
「以前、会長からオリンピックにこだわる理由の一つに、『従業員が自分の家族に「こんな会社で働いているんだ」と胸を張れるような会社でありたい』と言われた」と渡邊さん

セーリングは「リスクマネジメント」の競技

セーリングの競技中、海の上では誰も助けてくれません。体調管理や船の状態、風向きや波の予想も全て自分次第。

さらに、敵であるライバルたちが大勢います。自分で集めた情報を元に状況を読み解き、瞬時に判断する力が求められます。失敗した人間から順位を落とすので、まさに「リスクマネジメント」の競技なんですね。

仕事をする上で、セーリングで得た経験が役立つと感じています。その一つが、洞察力です。自然の変化やライバルの戦術、心理などを先読みする中で身についたスキルですが、これは現在の営業の仕事で役立っていると感じています。お客様の考えていることを先読みし、相手が響くものを提案したり、プレゼン中「相手に響いていない」と感じたら、即座にアプローチ方法を変更したり。コロナ禍でオンライン面談が多くなり、なかなか相手の動向や心理を読みづらくなっているので、今まで以上にこのスキルが役立っていると感じます。

さらに、私はこれまでスポーツ界で培った人とのつながりが豊富にあります。人脈は私の強みです。人とのつながりから仕事に発展することもあるのですが、会社はその点も見越して私を営業へ異動させたのだと思います。

混合ナクラ17級の第10レースで帆走する飯束潮吹(左)、畑山絵里組=2021年8月1日、江の島ヨットハーバー沖、藤原伸雄撮影
混合ナクラ17級の第10レースで帆走する飯束潮吹(左)、畑山絵里組=2021年8月1日、江の島ヨットハーバー沖、藤原伸雄撮影

初の五輪出場選手が誕生

会長は、資金力も豊富にあるわけではない中でヨット部を創設しました。当初は社内で反発の声もあったと思います。それでも「自社から五輪選手を」という期待をかけてくれました。

私はその思いに応えたいと思っていました。結果的に、私自身は五輪出場には至りませんでしたが、その思いは、後輩たちを五輪出場させる使命へとシフトしました。

そして今年、東京五輪のセーリング「混合ナクラ17級」という部門で、飯束潮吹(いいつか・しぶき)選手、畑山絵里(はたやま・えり)選手の2人が出場しました。自分が成し遂げられなかった夢を、違う形ですが、達成できたことは、自分にとっても、会社にとっても大きな出来事となりました。

ヨット部では10年ほどキャプテンを務めています。部として、この10年で国内の大会で多数の優勝実績を残しました。今回、五輪出場の夢が一つ叶ったので、部としても会社としても、次のステージを目指していきたいと思っています。

スポーツは、元々楽しむもの。現役を引退しても、競技は生涯続けていきたいと思っています。

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