話題
「親が悲しむから…」支援団体代表になっても言えなかった性の悩み
報道で知った父の言葉「娘でも息子でも」
「親には絶対ばれたくありませんでした」
広島市に住む當山敦己(とうやま・あつき)さん(29)は、小学生の時から感じていた「性別への違和感」について、そう話します。
生き生きとした表情が印象的な男性ですが、かつて戸籍上の性別は女性でした。
「LGBT」という言葉も知らず、誰にも相談できなかった思いを聞きました。(朝日新聞大阪社会部・新谷千布美)
2021年6月、日本赤ちゃん学会が「育ちの中で多様な性を考える」というテーマでオンラインイベントを開きました。年1回の学術集会を前にした一般向けの催しで、今年は日本女子大学の麦谷綾子准教授(発達心理学)が、withnewsの記事「2歳ごろから『自分は女の子』 いっちゃんが自分の居場所をつくるまで」を題材に企画してくれました。
1991年、沖縄で3人姉妹の長女「あづさ」として生まれました。
体を動かすことが好きで、幼いときは性別を意識せずに遊んでいました。
両親は、好きなようにさせてくれました。
服屋で男の子向けの服に向かって駆け出していったときも、赤いランドセルを捨てて勝手に黒いショルダーバッグに変えたときも。
「良く言えば寛容、悪く言えば子どもにあまり関心の無い両親でした。借金やギャンブル癖、父親の家庭内暴力の方が家族の中ではもっと大きな問題だったので」
小学校の卒業式の前日、初めて生理が来たときのことは今でも忘れられないと話します。
「恐怖でした。学校の授業で習っていましたが、どこか自分には起こらない他人事だと思ってた。それなのに血が出てくる。驚きましたし、女性であることをつきつけられ、『ありえない』と絶望しました。『生理』という言葉を出すことさえ嫌でした。でも、どうしてそんな気持ちになるのかは全くわからなかったんです」
その後何年経っても、生理について母親や友人に話せませんでした。
気づかれないように少しずつ母親の生理用品を取って使い続け、「隠し通しました」。
中学校のスカートの制服も嫌でたまりませんでした。
しかし周りに相談しようにも、どんな風に伝えたらいいのかわかりません。
性的少数者についてのニュースも多くなく、「LGBT」という言葉も知らなかったからです。
「周りと違うことが恐ろしかったんです。自分は異常だと思っていました。特に父は怒ると手を上げるところもあったので、絶対にばれたくありませんでした」
高校2年の夏のある日、それまであまり接点の無かった別のクラスの生徒から放課後に呼び出され、尋ねられました。
「お前って、性同一性障害なんじゃないの?」
初めて「性同一性障害」という言葉を聞いた瞬間でした。
その生徒のことは「女子」だと思っていましたが、髪も短く、運動着姿で男子と一緒にいることが多い人でした。
詳しく聞くと、「自分は性同一性障害の診断を受けている」と話してくれました。
最初は戸惑ったものの、その生徒と親しくなり、インターネットなどでも調べるうちに「自分もそうなのでは」と思うようになりました。
親元から離れたいと、地元から遠い大学に進みました。
しかし大学3年生になり就職活動が迫ると、「周囲と違う自分は社会に出られないのでは」と思い詰めるようになりました。
アパートに引きこもり続けたとき、叱咤してくれた人がいました。
当時、交際をしていた後輩の女性でした。
「あんたはあんたでしょ!あんた自身が一番自分を差別しているんじゃないの?」
目が覚めるような一言でした。
当時、「自分は性同一性障害かもしれない」と打ち明けることができていたのは彼女だけでした。
変わらないといけない。
そう思い、信頼できると思っていた先輩にも相談することにしました。
「いいじゃない。人と違うところが魅力なんだよ。周りが敵になっても、ずっと味方でいるよ」
それまで「自分は異常だ」と思っていたことを、先輩は「魅力」と表現してくれたのです。
自分を受け止めてくれる存在は、社会の中にちゃんといる。
そう実感し、震えながらも初めて病院に電話をかけました。
半年間の通院を経て、ようやく性同一性障害という診断を受けました。
大学を卒業すると、今度は自分が支える側になりたいと思うようになりました。
広島市に移住し、2018年、性に悩む子どもたちと保護者のコミュニティースペース「ここいろhiroshima」を始めます。
公園での外遊びやバーベキューなど、月1回のペースで集まれるイベントを企画。
LINEの相談窓口も設けました。
ただ、両親には一切伝えていませんでした。
身体の性別を適合させるため2度の手術を行い、タイにも渡っていましたが「遊びに行く」と言っただけでした。
名前を変えたことも、戸籍上の性別を女性から男性へ変えたことも話していませんでした。
「10代からの『言わない』というスタンスがずっと続いていました。どれだけ理解してくれるか不安だったんです。あんな両親でも悲しむと思って」
背中を押してくれたのが、ここいろhiroshima共同代表の高畑桜さん(28)でした。
高畑さんは自身を男性にも女性にもあてはまらないと感じている「Xジェンダー」です。
2017年に出会ってから意気投合。一緒に学校での講演も引き受けていました。
當山さんが両親へのカミングアウトを考えていると知り、2人で沖縄での講演会を企画。
そこへ當山さんの両親を招待することにしたのです。
2019年6月、當山さんが27歳のときでした。
2人は「LGBT」とは何なのか、そして「ここいろhiroshima」としての活動を約2時間かけて紹介しました。
100人ほどが集まり、地元メディアも取材に訪れました。
當山さんは最後に、両親への思いも手紙も読み上げました。
「小さいときから男みたいで、息子なのか娘なのかわからない子どもだったと思うけど、ずっと否定しないで見守ってくれてありがとう」
「これからは、できれば息子としてみてもらえたらうれしいけど、あづさとしてでもいいので、今までと変わらずよろしくお願いします」
両親は黙って聞いてくれました。
終わった後、直接話をする時間はとれませんでしたが、次の日の地元紙の記事には「娘でも息子でも自分の子です」という父のコメントが掲載されていました。
父は家族の中で最初に「あつき」と呼んでくれました。
母とは「元気?」といった何げない電話をよくするようになりました。
「涙が出るぐらいうれしかった。あんな風に親に打ち明ける勇気をもらえたのは、これまで出会ってきた人たちや、ここいろhiroshimaのおかげです」
そして、今の活動の意義をこう話します。
「『ここなら否定されない』と思える『心の安全基地』が必要なんです。性に悩む子どもにとって、『家庭』は必ずしも心の安全基地になっているとは限りません。親も悩むと思います。だからこそ、第三者による居場所が大事なんです。『受け止めてもらえた』と感じたとき、その子は強くなれるし、優しくなれると思います」
記者がはじめて當山さんに出会ったのは2018年、「ここいろhiroshima」の立ち上げを取材したときでした。
当時はご両親にカミングアウトする前。
明るくユーモアを交えて子どもに接する姿からは、「両親を悲しませたくない」と悩む様子は全く想像することができませんでした。
幼少期を共にする家族は、自分の一部を占めていると思います。楽しい思い出も、悲しい思い出も、ことあるごとに思い出されます。だからこそ、家族に「否定されたら」という恐怖が大きくなることは想像に難くありません。
今回當山さんは、「『心の安全基地』があったから両親へのカミングアウトという挑戦ができた」と話してくれました。
家族に何でも話せるという人もいるでしょうが、そうでない人は性的少数者に限らず社会の中にいると思います。
誰かの「心の安全基地」になるにはどうすればいいか。それを考えて生きていきたいと思いました。
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