連載
「企業」じゃなくて「輝業」使う理由 20年前の〝成功神話ブーム〟
過剰な「夢」と「努力」が生む息苦しさ
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過剰な「夢」と「努力」が生む息苦しさ
経済誌などの記事を眺めていると、しばしば「輝業」という単語と出会います。新たな事業を興したり、挑戦的な仕事に取り組んだりする組織・個人を、たたえる文脈で登場する言葉です。「企業」や「起業」の言い換え語とされ、平成期から用いられてきました。どのような背景から社会に広まったのか? 調査した結果、時代の変化に取り残されまいと〝成功物語〟を求め続ける、現代人の心の動きが見えてきました。(withnews編集部・神戸郁人)
「輝業」について知るきっかけとなったのは、7月16日に開催した、ツイッタースペース上での会話です。
筆者は、「人材」をもじった「人財」などの語彙(ごい)を「啓発ことば」と命名し、その起源を探っています。これらの造語は、なぜ量産され続けるのか。「成長」をテーマに、創作活動に取り組む漫画家・紀野しずくさんと、スペースで語らいました。
意見交換の途中、「実は調べてほしい言葉があるんです」と話した紀野さん。近々、連載作品『夫は成長教に入信している』で「輝業」を取り上げるので、使われるようになった理由が知りたい……とのことでした。
字面からは、積極的で、果敢な働き方を肯定するニュアンスが感じ取れます。単調な労働ではなく、世間に認められるような、価値ある事業に挑戦しなさい――。以前考察した、「仕事」に由来する語句・「志事」の意味合いと、どこか響き合うようです。
勤労を通じた自己実現への信頼感を表している印象も強い、「輝業」という語句。その成り立ちに迫るため、筆者は、用例を集めることにしました。
手始めに、新聞や雑誌などの過去記事を調べてみました。データベース「日経テレコン」で、「輝業」と検索してみると、表示されたのは399件のコンテンツ。最も古いものが、1990年に公開された外資系企業幹部へのインタビューです。
同年10月3日付けの日経産業新聞は、米国系トイレタリーメーカー・ジョンソンの上田和男常務(当時)の発言を報じています。上田さんは、ユーザー本位で事業を展開する大切さを説きつつ、次のように語りました。
「メーカーもいつまでも製造だけしていればいいという考え方ではダメだ。“危業”になってしまう」 「選ばれるというのは、喜ばれること。消費者に喜ばれる“喜業”となって、いつも輝いている“輝業”をめざしたい」
――1990年10月3日付け 日経産業新聞
上田さんによれば、当時の同社は認知度向上が課題でした。購買層を厚くする上で、消費者とのコミュニケーションを図る戦略を描いていた、とみられます。そのスタンスは、商品開発に重きを置く、昔ながらのメーカーのあり方と異なる、と考えていたようです。
記事の中で、旧態依然とした商習慣になじむ企業を、“危業”と表現した点は注目に値します。“輝業”という語句が、これとは対照的に、時流を読んで経営体制を刷新できる組織を指す、と示唆されるからです。
“危業”と“輝業”の組み合わせは、別の媒体でも確認できました。
1998年4月5日、神戸市と淡路島を結ぶ、明石海峡大橋が開通します。その前日にあたる4月4日、愛媛新聞は、橋が四国地方に与える影響を読み解く記事を公開。同地方の風土を、「保守的」として批判する段落で、経済研究家の男性の声を引きました。
「『やられる』と考える発想の方向性こそが、実は倒産の危機であり淘汰(とうた)される要素だ」。中村は明石海峡大橋が開通する今年が、徳島県の企業にとって「輝業」と「危業」の分岐点だという。橋が来てつぶれる会社は、橋が来なくてもつぶれる―。こうまで直接的には言わないが、中村はそんな意味合いの話で締めくくった。
――1998年4月4日付け 愛媛新聞
文中、架橋後の経済はどうなるかと心配する、地元企業人らの姿が描かれます。男性は、これを「受け身」と問題視。「そうじゃない。(橋を)『どう使いますか』と考えるべきだ」。そのような厳しい口調で、域外との交流を呼びかけたのです。
橋の整備を好機と捉え、事業を創出・拡大できる企業は「輝業」である。反対に変化を毛嫌いし、内向き志向のままでいる企業は、「危業」として前線から撤退するしかない――。記事において、このような具合で、それぞれの言葉が使われています。
1990年代、バブル崩壊やサービス業の伸展を経て、国内産業は大変革期を迎えました。経済のグローバル化により、働き手の流動性が強まり、終身雇用制の衰退が加速した側面もあります。企業活動に及んだ影響は、無視できないものでした。
日本の発展を主導してきた会社が、産業構造の変化などで打撃を受ける。その余波が地方をも襲い、地域経済の土台を揺るがす……。こうした流れの中で、時代に合った働き方を模索する個人や組織を、好意的にみる風潮は強まっていきました。
日本経済新聞幹部が講演で語った、「これから生き残れる企業は“輝業”とお客様を満足させる“喜業”のみである」(1997年6月8日付け 沖縄タイムス朝刊)との発言は、当時の経済界関係者の、心象風景を象徴していると言えるでしょう。
2000年代に入ると、こうした社会情勢を受ける形で、各種メディア上に興味深い動きが起こります。ユニークな取り組みを続ける、地方企業の活動を追う目的で、「輝業」の名を冠した連載を始めたのです。
例えば毎日新聞は2005年1月、岩手県版の紙面で、「輝業人たち:オンリーワンへの途(みち)」と題した特集をスタートさせました。地場産業の振興に力を入れる県内企業と、そのトップたちの来歴について伝える内容です。
特集に登場する、あるメーカーの社長は元々、別の工場で働いていました。しかし業績悪化を理由に、勤務先が閉鎖されてしまいます。その後、地元で働き続けたいと起業。独自技術を用いたプリンター開発で一旗揚げ、起死回生を成し遂げました。
他県から移住したという、金型製造の職人を取り上げた回もあります。中学卒業後に就職した企業で、激務に耐えつつ、金属加工の腕を磨きました。やがて「技術を試したい」と岩手に引っ越し、電子機器用部品を作る会社を起こした、との内容です。
そもそもなぜ、このような特集が立ち上がったのか。同紙が2005年元日に公開した、連載告知記事の序文には、次の説明が盛り込まれています。
地方経済は復調の兆しが見えないと言われて久しい。だが県内には逆風にも負けず輝きを放つ企業がある。技術力やアイデアで世界や全国の注目を集める企業の目玉商品を紹介する。
――2005年1月1日付け 毎日新聞岩手県版
似た趣旨の企画を展開している媒体は、他にも。「ぎふの中小輝業」(中日新聞岐阜版)、「羽ばたけ中小輝業」(中部経済新聞)、「わがまち輝業」(大阪読売新聞)……。20年以上前から、新聞社の枠を越え、〝輝業ブーム〟が続いていたのです。
国土交通省「国土交通白書」(令和2年版)によると、日本では戦後一貫して、地方から都市部へと人口が流出してきました。1990年代半ばの一時期を除き、東京圏で転入超過が継続。また20代前半の転入者に限れば、年々その割合が高まっています。
背景には、働き口の数や所得水準の格差といった課題が、依然として解決されない事情があります。少しでも多くの若者を、地方に呼び戻したい。上述した新聞報道には、そんな願いが込められているのではないでしょうか。
一連の記事で反復されているのは「夢を持ち努力すれば、故郷に錦を飾ることができる」という、ある種の「成功神話」です。
事業の失敗や学歴コンプレックス、突然の失業などの困難を乗り越え、地元で生きる道を見いだし、仕事を通じて自己実現を達成する。結果として、その土地をもり立てることにもつながる。それぞれのエピソードに、共通する図式と言えます。
一方、過去記事に目を通す中で、「夢」と「努力」の総量を、人々に競い合うよう促す雰囲気も感じられました。
都市部で企業の発展のため働いていた人が、今度は地域の存続に尽くすよう求められる。いつまでも、個人が「輝業」的存在であることをやめられない状況は、新たな息苦しさを生じさせる恐れがあります。
筆者にも、都心で営んでいた仕事を辞め、農村部にUターン・Iターンした知人たちがいます。生きる糧を得るため働きつつ、地元の住民や文化を好きになり、新たな居場所を得た人々は少なくありません。
仕事を通じて何かをやり遂げること、誰かに選ばれることだけが、成功の条件なのか。競争と距離を置く判断にも、意味があるのではないか。そのようなメッセージを、逆説的に伝えてくれる言葉が、「輝業」なのかもしれません。
・「いつも輝いている―を目指したい」
・「企業が“危業”と―になる分岐点」
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