連載
#30 帰れない村
牛飼い暮らし一変した原発事故 一時帰宅でぽつり「毎日幸せだった」
「毎日が幸せだった」
福島県田村市で避難生活を送る酪農業鴫原トミイさん(62)は、自宅のある旧津島村に一時帰宅した時、何度も同じせりふを口にした。「牛飼いの暮らしは大変だったけど、それを大変だと思わないくらい、日々が充実していた」
義父が開拓した土地を引き継ぎ、夫の真三さん(70)と一緒に酪農業を軌道に乗せた。牛は生き物だ。餌やりや乳搾りは欠かせない。休みはなかったが、日曜日には弁当を持って、子どもたちと一緒に干し草を集めにピクニックに行った。4人の子どもたちは牛乳を飲んで大きく成長し、三男は身長が196センチにもなった。
夫は趣味人でもあった。数百万円かけて天体望遠鏡を購入し、自宅に天文台を自作して、夜空を眺めた。
ログハウスに住みたいと、裏の杉林を伐採し、約10年かけて製材して自力で組み上げ始めた。完成の直前、約30キロ先で原発事故が起きた。
事故4日後に避難を求められたが、牛がいるので離れられない。二本松市の体育館に避難したのは3月21日。それでも牛のことが気に掛かり、自宅に通って16頭の世話を続けた。
5月末、飼い続けることができなくなり、やむを得ず15頭を食肉用として出荷した。識別用の札がなかったため、1頭は殺処分に。数十頭の牛の殺処分に立ち会った夫からは「一度の薬では効かず、死んでたまるかと大きな目で訴えてくる牛もいた」と聞き、身を切られるようにつらかった。「なぜ、こんな思いをしなければいけないのか」と強く思った。
今、激しく後悔していることがある。
事故直後、牛の乳を搾り続けたが、集乳車が来なかった。貯蔵できずにホースを使って捨てた。乳は白くにじみながら、霜柱の立つ畑に広がっていく、その光景が空しくて、少しでも役に立てたらと、搾りたての乳を一升瓶に入れて検査に出さずに親類の子どもたちに配った。
数日後、近隣地区の牛乳から放射能が出たとニュースで知り、青ざめた。放射能の知識なんてまるでなかった。自分は何てことをしてしまったのか……。
「今も自分からは原発事故のことも、牛のことも話すことはありません。みんなそうやって抱え続けて生きているのだと思います」
三浦英之 2000年、朝日新聞に入社。南三陸駐在、アフリカ特派員などを経て、現在、南相馬支局員。『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』で第13回開高健ノンフィクション賞、『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』(布施祐仁氏との共著)で第18回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、『牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って』で第25回小学館ノンフィクション大賞を受賞。最新刊に新聞配達をしながら福島の帰還困難区域の現状を追った『白い土地 福島「帰還困難区域」とその周辺』と、震災直後に宮城県南三陸町で過ごした1年間を綴った『災害特派員』。
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