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コラム

「体験した人にしか気持ちは伝わらないの?」泥だけのパンプスの記憶

忘れられてしまうからこそ、語り継ぐ

がれきの中を歩いて避難する人々を、歩道橋の上から撮影した=12日午前、宮城県名取市閖上、橋本佳奈撮影
がれきの中を歩いて避難する人々を、歩道橋の上から撮影した=12日午前、宮城県名取市閖上、橋本佳奈撮影

目次

その時、私は仙台市役所の中で取材していました。突然、地鳴りを感じ「あ、地震ですね」と言っている間もなく、築年数の古い庁舎は激しく揺れだしました。とっさに机の下に隠れると、本棚が倒れ、コピー機がものすごい速さで机にぶつかってきました。停電になりコンクリートが粉じんとなり舞いました。手が震え、死を覚悟しました。とっさに家族にメールしようと文章を打ちこみました。それから10年。今も、当事者でもあり取材者だった自分は何を伝えることができたのか、考え続けています。

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閖上の歩道橋から見た光景

発生後、車が使えず急いで自転車で約15キロ先の津波の現場に向かおうとしました。しかし、危険だったため、海に近い避難所の取材をしていました。真っ暗の体育館で、ラジオから「津波で数百人の遺体を発見」と聞いたときは現実を飲み込めませんでした。

翌12日未明、先輩と2人で津波の被害にあった名取市の閖上地区に向かうと、海岸から数キロ離れたところまで浸水しており、それ以上車は入れませんでした。着の身着のままだったため、前日から履いていた仕事用のパンプスで泥水の中を少しずつ進みました。閖上まで2キロ近く歩きました。

夜明けとともに広がった目の前の光景は、想像を絶していました。今も昔のニュース映像が流れますが、自分の目で見た光景はあまりにも生々しく、耐えがたいものでした。水面にぽつぽつと点在する家からは炎が上がり、建物の屋上で自衛隊に助けを呼ぶ人々が手を振っていました。赤ちゃんを抱えた泥だらけの女性が自衛隊のボートに乗って救助されていました。コンビニエンスストアの建物に流されてきた大量の車が突っ込んで破壊していました。

瓦礫が山になっており、それ以上前に進めません。仕方なく大きな交差点にある歩道橋の上からしばらく様子を見ました。そうする間にも津波の警報は鳴り続けていました。次第に瓦礫がどかされていき、閖上中学校にたどり着きました。外の時計は2時46分で止まっていました。避難していた人たちが救助されていきました。車いすのお年寄りの呆然とした表情が忘れられません。

津波から50人救った名取市閖上の歩道橋は17年に撤去された。筆者も発生翌日の3月12日、この歩道橋から記事冒頭の写真を撮影した。写真はこの階段から駆け上がって避難した男性=2017年10月31日、石橋英昭撮影
津波から50人救った名取市閖上の歩道橋は17年に撤去された。筆者も発生翌日の3月12日、この歩道橋から記事冒頭の写真を撮影した。写真はこの階段から駆け上がって避難した男性=2017年10月31日、石橋英昭撮影 出典: 朝日新聞

夕方、自宅に泥だらけの服を着替えるために帰りました。地震のとき、たまたま、母親が実家から来ており自宅にいました。その後近くの小学校の体育館に避難していたといいます。私は無事を確認するため自宅前で落ち合いました。「無事でよかった」と抱きしめられました。このとき記者としての自分の緊張の糸が一気にほどけてしまい、涙が止まりませんでした。市内もライフラインが断絶されました。私も一週間ほどは避難所の体育館や役所、会社で寝泊まりしながら取材に向かいました。

震災後、1年以上悪夢が続きました。炎に包まれた海の中にぽつんと立った木の塔に取り残され、次第に炎に包まれ息ができなくなる夢です。

記者としてどう向き合うべきか

当時は悩みながらも、とにかく取材することしかできませんでした。

発生直後、自衛隊や消防の人たちは次々に救助をしていましたが、私は写真を撮ることしかできませんでした。しばらくは役所での情報収集、会見の対応で張り込んでいましたが「人の役に立っているのだろうか」と考えてしまいました。一人になり、ぼーっとしてしまう時間がありました。

会社は、応援に駆けつけた記者で満員状態でした。心強かったのですが、「『仕事』として出張で来ている人たちには当事者の気持ちは分かってもらえないのでは」と感じてしまう自分もいました。一方で、家族を亡くした人たちから見たら、自分も同じなのではと感じていました。取材する相手の人の心にいくら寄り添ったとしてもその人にはなれないと思い、悩み続けました。

「体験した人にしかこの気持ちは分からないのか」

以降、この問いに私は向き合い続けることになります。

前を向く人たちの姿から学ぶ

そんな中、取材を通して出会った人たちの存在が少しずつ私の考えを変えていきました。

津波の被害にあった仙台市若林区の沿岸部。荒浜小学校の教師の女性は、受け持っていた当時の卒業生の6年生の児童たちのことを案じていました。学校にも津波が襲い、児童とともに屋上に逃げ一命を取り留めました。震災前から異動が決まっていましたが、毎日のように児童の寝泊まりする避難所に顔を出し、笑顔で声をかけていました。

4月12日の記事の切り抜き。荒浜小学校の取材した=朝日新聞
4月12日の記事の切り抜き。荒浜小学校の取材した=朝日新聞

仙台空港近くの岩沼市。元老舗ホテルの料理人だった男性は、自宅が津波に飲み込まれましたが、避難所で温かい料理を避難者に振る舞っていました。「自分にできるのは料理しかない」と、食材をかき集めて、毎日避難所の厨房に立ちました。人々を笑顔にしていました。

4月27日の記事の切り抜き。岩沼市の避難所の取材をした=朝日新聞
4月27日の記事の切り抜き。岩沼市の避難所の取材をした=朝日新聞

取材で出会った人たちは、皆自分のできることをとにかくがむしゃらにやっていました。記者の自分ができたことは人たちの声を聞いてとにかく書くことでした。次第に、生きていく人たちの姿を記すことが唯一自分のできることだと感じるようになりました。

10年経ち、その時、東北にいなくてもみんなが、あの震災を、それぞれの立場で体験をしているということを考えられるようになりました。

その上で、あの日、仙台にいた自分にしかできないことは何か。

震災の記憶は、放っておくと時とともに忘れられてしまうのが現実です。今、関西に住んでいる身としては、東日本大震災への関心に温度差を感じることもあります。
だからこそ、今も取っておいてある泥だらけのパンプスや、歩道橋からの光景、車いすのお年寄りの表情を、私なりに10年後も通じる言葉で伝えていかなければいけない。勇気をだして、「あのとき」を語り継いでいくことが大切だと感じています。

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