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連載

#24 帰れない村

義母の認知症・夫の優しさ…原発事故で激変した生活、支えた故郷の歌

かつての農地に立つ窪田夫婦。ビニールハウスがあった場所には背丈を超える枯れ草が生い茂っている=2020年12月1日、福島県浪江町津島地区、三浦英之撮影
かつての農地に立つ窪田夫婦。ビニールハウスがあった場所には背丈を超える枯れ草が生い茂っている=2020年12月1日、福島県浪江町津島地区、三浦英之撮影

目次

帰れない村
東日本大震災から間もなく10年。福島県には住民がまだ1人も帰れない「村」がある。原発から20~30キロ離れた「旧津島村」(浪江町)。原発事故で散り散りになった住民たちの10年を訪ねる。(朝日新聞南相馬支局・三浦英之)
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つらいとき口ずさむ「相馬流れ山」

相馬流れ山 ナ~エ~ 習いたかござれ~

福島市で避難生活を送る窪田たい子さん(65)は、つらくなると口ずさむ歌がある。

故郷の民謡「相馬流れ山」。相馬地方に伝わる野馬追いの情景などを歌う。

旧津島村で生まれ、地元出身の夫(69)と結婚。4人の子を育てた。震災前までは仲の良さで評判の家族だった。夫は造園や葉タバコの栽培、義母(94)は大好きな花の手入れに忙しかった。

原発事故、変わってしまった家族

そんな自慢の家族が、原発事故で変わってしまった。義母は慣れない避難生活で認知症になり、人の手を借りなければ生活ができなくなった。食事や入浴を手伝おうとすると、「馬鹿にするんじゃねえ」と怒鳴られる。

震災前から週3回、透析に通っていた夫は、車で病院への送り迎えをする妻に、感謝の言葉を掛けることが少なくなった。ケンカが絶えず、食卓から会話や笑い声が消えていく。

「どうしてこうふうになってしまったのだろう?」

たい子さんはストレスで円形脱毛症になり、死んでしまいたいと思うようになった。でも津波で亡くなった人のことを思うと、踏み切れない。

そんな時は「今、私が頑張らないと、この家はバラバラになってしまう」と自らに言い聞かせ、「相馬流れ山」を歌う。かつて自宅の前にそびえていた、日山をまぶたの裏に思い浮かべて。

一時帰宅で思う「ここで暮らせていたら……」

昨年12月、一家は津島に一時帰宅した。

自宅の屋根は崩れ落ちそうで、葉タバコを栽培していたビニールハウス内には枯れ草が茂り、木まで生えていた。

「ここで暮らせていたら、家族もずっと仲の良いままだったのに」

たい子さんが悔しそうに言うと、夫も黙ってうなずいた。

「今は介護がつらいです。津島にいれば、悩みもご近所さんに相談できたのかもしれないけれど……」

たい子さんが独り言のように話す。遅れて歩いてきた義母が崩れそうな自宅を見上げ、「ありゃあ、原発事故はなんてことしてくれたんだあ」と言った。

 

東京電力福島第一原発の事故後、全域が帰還困難区域になった福島県浪江町の「旧津島村」(現・津島地区)。原発事故で散り散りになった住民たちを南相馬支局の三浦英之記者が訪ね歩くルポ「帰れない村 福島・旧津島村の10年」。毎週水曜日の配信予定です。

三浦英之 2000年、朝日新聞に入社。南三陸駐在、アフリカ特派員などを経て、現在、南相馬支局員。『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』で第13回開高健ノンフィクション賞、『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』(布施祐仁氏との共著)で第18回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、『牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って』で第25回小学館ノンフィクション大賞を受賞。最新刊に新聞配達をしながら福島の帰還困難区域の現状を追った『白い土地 福島「帰還困難区域」とその周辺』と、震災直後に宮城県南三陸町で過ごした1年間を綴った『災害特派員』。

南相馬支局員として、原発被災地の取材を続ける三浦英之記者
南相馬支局員として、原発被災地の取材を続ける三浦英之記者

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