連載
#22 帰れない村
原発事故で転校、帰りたいと懇願した次女 「思春期に苦労」悔やむ父
「最大の気がかりは、2人の娘たちのことです」
福島県二本松市に避難中の柴田明美さん(56)は、家族のアルバムを前に力なく笑った。隣で夫の明範さん(54)が見つめる。
自宅は旧津島村にあり、夫婦には2人の娘がいた。原発事故当時、長女は中学3年生、次女は小学6年生。子どもが少ない津島では「保育所から高校までがまるで一貫校」(明美さん)。長女も次女も地元の友達と浪江高津島校と津島中に進学することを楽しみにしていた。
そんな姉妹を原発事故が襲う。一家は栃木県の親類宅に避難した後、浪江高津島校が二本松市で再開すると聞き、長女の通学のために二本松市のホテルへと転居。次女はそこから二本松市内の中学校に通うことになったが、徐々に通学を嫌がるようになり、次第にホテルに閉じこもるようになった。
「人が押し寄せてくる感じがする」
「浪江からの転校生が『放射能を浴びた。寄るな』と言われていた。私も同じだ」
津島に帰りたいと懇願する次女に向かって、夫婦は「津島は放射能に汚染されたの。今はここで頑張るしかないんだよ」と諭すことしかできなかった。
次女は二本松市で再開した浪江中に転校後、中2の夏には校長と一緒に通学し、門にタッチして帰って来られるようになった。冬には保健室で30分自習するなど、少しずつ努力を重ねた。
卒業前、夫婦は次女に浪江高津島校への進学を勧めた。「高校に行かないと、どこの職場も雇ってくれないよ」と言うと、次女は「うん、わかった」と声をあげて泣いた。
その言葉通り、次女は高校進学後、勉強に励み、学年トップの成績を収め、生徒会長も務めた。
「一番楽しいはずの思春期に、娘たちには本当に苦労をかけてしまった」と明範さんは悔やむ。
「娘たちからは今も『私たち子どもを産めるのかな?』という話を聞かされる。でも、我々は何もできない。親としてこれほど苦しいことはありません」
三浦英之 2000年、朝日新聞に入社。南三陸駐在、アフリカ特派員などを経て、現在、南相馬支局員。『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』で第13回開高健ノンフィクション賞、『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』(布施祐仁氏との共著)で第18回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、『牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って』で第25回小学館ノンフィクション大賞を受賞。最新刊に新聞配達をしながら福島の帰還困難区域の現状を追った『白い土地 福島「帰還困難区域」とその周辺』。
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