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#22 帰れない村

原発事故で転校、帰りたいと懇願した次女 「思春期に苦労」悔やむ父

家族のアルバムを見つめながら震災後の10年間を振り返る柴田夫妻=2020年11月、福島県二本松市、三浦英之撮影
家族のアルバムを見つめながら震災後の10年間を振り返る柴田夫妻=2020年11月、福島県二本松市、三浦英之撮影

目次

帰れない村
東日本大震災から間もなく10年。福島県には住民がまだ1人も帰れない「村」がある。原発から20~30キロ離れた「旧津島村」(浪江町)。原発事故で散り散りになった住民たちの10年を訪ねる。(朝日新聞南相馬支局・三浦英之)
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「まるで一貫校」だった津島

「最大の気がかりは、2人の娘たちのことです」

福島県二本松市に避難中の柴田明美さん(56)は、家族のアルバムを前に力なく笑った。隣で夫の明範さん(54)が見つめる。

自宅は旧津島村にあり、夫婦には2人の娘がいた。原発事故当時、長女は中学3年生、次女は小学6年生。子どもが少ない津島では「保育所から高校までがまるで一貫校」(明美さん)。長女も次女も地元の友達と浪江高津島校と津島中に進学することを楽しみにしていた。

2017年に休校になった浪江高津島校。校舎の1階には板が打ち付けられている=2020年10月、浪江町津島地区、三浦英之撮影
2017年に休校になった浪江高津島校。校舎の1階には板が打ち付けられている=2020年10月、浪江町津島地区、三浦英之撮影

帰りたいと懇願した次女

そんな姉妹を原発事故が襲う。一家は栃木県の親類宅に避難した後、浪江高津島校が二本松市で再開すると聞き、長女の通学のために二本松市のホテルへと転居。次女はそこから二本松市内の中学校に通うことになったが、徐々に通学を嫌がるようになり、次第にホテルに閉じこもるようになった。

「人が押し寄せてくる感じがする」

「浪江からの転校生が『放射能を浴びた。寄るな』と言われていた。私も同じだ」

津島に帰りたいと懇願する次女に向かって、夫婦は「津島は放射能に汚染されたの。今はここで頑張るしかないんだよ」と諭すことしかできなかった。

仮設住宅で暮らしていた頃の柴田明範さん。日に10種類の薬を飲み続けていた=2012年10月、福島県二本松市、藤原慎一撮影
仮設住宅で暮らしていた頃の柴田明範さん。日に10種類の薬を飲み続けていた=2012年10月、福島県二本松市、藤原慎一撮影

「思春期に苦労かけた」

次女は二本松市で再開した浪江中に転校後、中2の夏には校長と一緒に通学し、門にタッチして帰って来られるようになった。冬には保健室で30分自習するなど、少しずつ努力を重ねた。

卒業前、夫婦は次女に浪江高津島校への進学を勧めた。「高校に行かないと、どこの職場も雇ってくれないよ」と言うと、次女は「うん、わかった」と声をあげて泣いた。

その言葉通り、次女は高校進学後、勉強に励み、学年トップの成績を収め、生徒会長も務めた。

「一番楽しいはずの思春期に、娘たちには本当に苦労をかけてしまった」と明範さんは悔やむ。

「娘たちからは今も『私たち子どもを産めるのかな?』という話を聞かされる。でも、我々は何もできない。親としてこれほど苦しいことはありません」

 

東京電力福島第一原発の事故後、全域が帰還困難区域になった福島県浪江町の「旧津島村」(現・津島地区)。原発事故で散り散りになった住民たちを南相馬支局の三浦英之記者が訪ね歩くルポ「帰れない村 福島・旧津島村の10年」。毎週水曜日の配信予定です。

三浦英之 2000年、朝日新聞に入社。南三陸駐在、アフリカ特派員などを経て、現在、南相馬支局員。『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』で第13回開高健ノンフィクション賞、『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』(布施祐仁氏との共著)で第18回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、『牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って』で第25回小学館ノンフィクション大賞を受賞。最新刊に新聞配達をしながら福島の帰還困難区域の現状を追った『白い土地 福島「帰還困難区域」とその周辺』。

南相馬支局員として、原発被災地の取材を続ける三浦英之記者
南相馬支局員として、原発被災地の取材を続ける三浦英之記者

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