連載
#18 帰れない村
「知っていたら、外に出さなかった」原発事故から9年半も、残る後悔
「保育士になるのが夢だったんです。なので、娘の子育てが終わった後は、児童クラブで働きたいと」
福島市で避難生活を送る浪江町の元臨時職員佐々木加代子さん(58)は、野山で遊ぶ子どもたちの写真を見ながらつぶやいた。
旧津島村にはかつて、共働きの両親に代わって放課後に子どもたちを預かる児童クラブがあった。佐々木さんは2006年から、そこで指導員として働いていた。
山間の集落は大自然に囲まれている。野原を散策したり、川で遊んだり、雪合戦をしたり。十数人の子どもたちも周囲の大人に見守られ、タケノコのようにすくすくと育った。
震災時は老朽化した建物が危険だったので、児童クラブにいた子ども6人を車2台の中へと避難させた。激しい揺れで泣き叫ぶ子どもたちに「大丈夫よ」と声を掛け、午後6時にはなんとか家族に引き渡すことができた。
問題は次の日だった。原発が危機的な状況に陥り、沿岸部から多くの浪江町民が津島へ避難してきた。津島の子どもたちは大人に交じり、屋外で避難者の世話や炊き出しを手伝った。「お手伝い、頑張って」。そう声を掛けたことを思い出すと、今も胸が張り裂けそうになる。
「子どもたちを守れなかった。『放射能が危ないから、子どもたちは家から出てはダメよ』。そう声を掛けるべきだったのに……」
2日後の3月14日、外で炊き出しをしていると、全身を防護服で包み、厚いマスクを着けた男性たちがやってきて、「何をしているのですか、家の中に入りなさい!」と大声で怒鳴られた。周囲の大人たちはポカンとし、何が起きているのかわからなかった。
あの時、国や東京電力は津島が危険だと知っていたのではないか、と思う。
「なぜ教えてくれなかったのでしょう? もし知っていたら、私は子どもたちを絶対に外には出さなかった。彼らが将来病気にならないかどうか、事故から9年半が過ぎた今でも心配でならないのです」
三浦英之 2000年、朝日新聞に入社。南三陸駐在、アフリカ特派員などを経て、現在、南相馬支局員。『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』で第13回開高健ノンフィクション賞、『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』(布施祐仁氏との共著)で第18回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、『牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って』で第25回小学館ノンフィクション大賞を受賞。最新刊に新聞配達をしながら福島の帰還困難区域の現状を追った『白い土地 福島「帰還困難区域」とその周辺』。
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