連載
#16 帰れない村
旧満州で敗戦、母は劇薬で死んだ そして原発…国策に翻弄された女性
岸チヨさん(90)と一緒に旧津島村の旧宅を訪ねたのは、2018年4月だった。旧宅は枯れ草に覆われ、周囲の道路は崩落していた。岸さんは旧宅前で小さく深呼吸をして、「うん、津島のにおいがする」と言った。
福島県の上川崎村(現・二本松市)で生まれ、1942年、国策で推し進められた満蒙開拓団として旧満州(現・中国東北部)に渡った。当初は楽しく現地の学校に通ったが、戦況が悪化すると、大人から小銃の撃ち方を教わったり、敵を出刃包丁で刺したりする訓練などをさせられるようになった。
敗戦を知ったのは、45年8月18日。ソ連軍が進駐してくるという話が広まると、住民に集団自決用の手投げ弾と劇薬が配られた。
父は、家族に劇薬を手渡して言った。「これを飲め。俺はお前たちの最期を見届けてから手投げ弾で自決する」
岸さんは別れを告げようと、親友に会いに行った。すると集落のあちこちで「この劇薬では死ねないぞ。飲むな」と叫ぶ声が聞こえる。急いで家に戻ると、家族は劇薬を飲んで、もがき苦しんでいた。慌てて解毒剤を飲ませると、胃の中の物を吐き出し、しばらくして快復した。
ただ1人、解毒剤を拒んだ人がいた。
最愛の母だった。日本の勝利と発展を信じ、旧満州の土になろうと大陸に渡ってきていた母は、解毒剤を勧める岸さんの手を振り払い、言った。
「親不孝者!」
岸さんは今もその母の言葉が忘れられない。
15日後、母は苦しみながら42歳で死んだ。4歳年上の姉は隣家で睡眠薬を飲んだ後、家に火をつけて焼け死んだ。1歳のめいは「連れて行ってもいくらももつまい」と父が首を絞めた。
ドブネズミのようになって大陸を逃げ回り、1年後、日本へと向かう引き揚げ船に乗った。
一家が落ち着いた先が、旧津島村だった。山林を切り開き、ササで屋根をふいただけの小屋で寝泊まりしながら炭やジャガイモなどを作った。岸さんは旧営林局の職員と結婚し、浪江町内で2人の娘を育てた。
しかし、原発事故。敗戦から半世紀を経て、岸さんは再び家を追われた。
満蒙開拓、引き揚げ、原発事故。国策に翻弄された人生を振り返る時、胸にこみ上げるのは国に対する憎しみではない。
「国が決めることはいつも大きすぎて、私にはよくわからないのよ」
でも、一つだけ、と岸さんは悔しそうに言った。
「あの時、無理にでも母に解毒剤を飲ませるべきではなかったか。そう思うと胸が苦しくなるの」
三浦英之 2000年、朝日新聞に入社。南三陸駐在、アフリカ特派員などを経て、現在、南相馬支局員。『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』で第13回開高健ノンフィクション賞、『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』(布施祐仁氏との共著)で第18回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、『牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って』で第25回小学館ノンフィクション大賞を受賞。最新刊に新聞配達をしながら福島の帰還困難区域の現状を追った『白い土地 福島「帰還困難区域」とその周辺』。
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