連載
#15 帰れない村
避難住民の診療続ける医師が振り返る原発事故、今も「見えない被害」
「驚きましたよ。累積800マイクロシーベルトですからね」
旧津島村の医療機関「津島診療所」の医師だった関根俊二さん(78)は原発事故当時を振り返り、空を仰いだ。
1997年、郡山市の病院から同診療所に単身赴任した。渓流釣りが好きで、最後はへき地医療に携わりたいと考えていた。任期が終わるまであと数年だった2011年、約30キロ先の東京電力福島第一原発で事故が起きた。
地震による診療所の被害はほとんどなかった。郡山市内の自宅に帰宅していた3月12日朝、「原発が危険な状態になり、浪江町の住民が津島地区に大勢避難してきています。すぐに診療所に戻ってほしい」と診療所の事務職員に電話でたたき起こされた。
急いで診療所に戻ると、着の身着のままで逃げてきた避難者たちが持病の薬を求め、長い列を作っていた。病名や症状を聞いても、普段処方されている薬まではわからない。1日300人以上を診察し、やがて薬が足りなくなった。
15日午前には、診断を中断して自らも津島から避難するよう指示された。救急車がないため、消防車の荷台に布団を敷いて重篤な患者を搬送した。
その後も二本松市の施設で臨時の診療所を開設し、避難住民の診察に当たった。4月、身につけている医療用のガラスバッジの値を聞いて驚いた。普段はゼロなのに、3月だけで「累積800マイクロシーベルト」。国が長期目標としている追加被曝線量「年1ミリシーベルト」の約8割を数日で浴びた計算になる。
津島の放射能汚染は、15日夕から16日朝に降った雪や雨が主な原因だと後に聞かされた。でも、自身が津島にいたのは11日から15日午前までで、15日夕にはもう津島を離れている。
「3月15日の前にも津島には多量の放射性物質が降り注ぎ、私と同じように被曝(ひばく)した住民がいたのではなかったか」
現在は約30キロ離れた二本松市の仮設診療所で避難住民たちの診療を続ける。津島で診察していた頃とは、症状が大きく異なる。
「津島にいた頃は畑仕事などで忙しくしていた人が、被災後は災害公営住宅から出てこなくなり、生活習慣病などで亡くなっていく。原発事故の『見えない被害』は今も続いている」
三浦英之 2000年、朝日新聞に入社。南三陸駐在、アフリカ特派員などを経て、現在、南相馬支局員。『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』で第13回開高健ノンフィクション賞、『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』(布施祐仁氏との共著)で第18回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、『牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って』で第25回小学館ノンフィクション大賞を受賞。最新刊に新聞配達をしながら福島の帰還困難区域の現状を追った『白い土地 福島「帰還困難区域」とその周辺』。
1/66枚