連載
#10 帰れない村
命がけで父母が開墾した地、原発が奪った 事故の責任問う住民の怒り
「私、無罪なんて到底信じられないわ」
2019年9月、東京地裁で業務上過失致死傷の罪に問われた東京電力の旧経営陣3人に無罪の判決が出されると、三瓶春江さん(60)は席を立ち上がって言った。
その日は偶然、福島地裁郡山支部でも「津島原発訴訟」の口頭弁論があり、旧津島村の住民が近くの集会場で判決の行方をネットニュースで見守っていた。
「こんな大事故が起きたというのに、国も東電も責任を取らない。裁判所も無罪だって言う。一体、誰が悪かったって言うのよ? 住民?」
出身地の旧津島村の赤宇木集落は戦後、旧満州(現・中国東北部)からの帰還者を多く受け入れた地域として知られる。津島全体で約300戸が入植し、その多くが赤宇木に入った。春江さんの両親も旧満州からの帰還者だった。
戦時中、憲兵だった父正さん(享年69)は母良子さん(同89)と結婚し、旧満州に渡った。敗戦後、父はシベリアに抑留され、母は密航船で日本に帰国。数年後に父が福島に戻り、春江さんが生まれた直後の1960年、一家8人で開拓団として赤宇木に入った。
極貧の生活が長く続いた。木を切って炭焼き、開墾した畑でジャガイモや葉タバコを作った。白いご飯を食べられるのは客が来た時だけ。毎日、雑炊やトウモロコシを食べていた。
原発事故はそんな両親が命がけで開墾し、生活をつないだ土地を奪った。父は1984年に死去。母は原発事故の翌年、福島市で避難生活を送りながら「このままだと家族がバラバラになってしまう」と不安を言い残して他界した。
両親が命がけで開墾した土地は今、背丈ほどのススキに覆われている。10月、私は防護服を着て春江さんの実家を訪ねた。放射線量は毎時約3マイクロシーベルト。胸の線量計が「ピーピー」と不快な警報音を響かせる。
「ねえ、三浦さん、伝えて」と春江さんは私に言った。
「今回の事故で苦しんでいるのは、今を生きている私たちだけじゃない。この土地で亡くなった多くの先人たちの思いも踏みにじっているのだと」
三浦英之 2000年、朝日新聞に入社。南三陸駐在、アフリカ特派員などを経て、現在、南相馬支局員。『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』で第13回開高健ノンフィクション賞、『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』(布施祐仁氏との共著)で第18回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、『牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って』で第25回小学館ノンフィクション大賞を受賞。
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