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連載

#2 帰れない村

「100年は帰れない」と言われた集落 行政区長は記録誌を作った

旧津島村・赤宇木集落の記録誌を作り続ける今野義人さん=2018年2月、福島県白河市、三浦英之撮影
旧津島村・赤宇木集落の記録誌を作り続ける今野義人さん=2018年2月、福島県白河市、三浦英之撮影

目次

帰れない村
東日本大震災から間もなく10年。福島県には住民がまだ1人も帰れない「村」がある。原発から20~30キロ離れた「旧津島村」(浪江町)。原発事故で散り散りになった住民たちの10年を訪ねる。(朝日新聞南相馬支局・三浦英之)
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震災半年後の国の説明

「『100年は帰れない』と言われてね……」

旧津島村にある赤宇木集落の行政区長今野義人さん(76)は、机に置かれた大学ノートの束に視線を落とした。ページをめくると、無数のメモが細かな字で書き連ねられている。

2011年秋、赤宇木集落の住民を対象に、国の説明会が開かれた。会合の場で、担当者は言った。

「このまま何もしなければ、100年は帰れないと思います……」

赤宇木の集いに参加した住民
赤宇木の集いに参加した住民

「百年後の子孫」に語り継ぐ

そうなのか、100年間も帰れないのか――。

義人さんはその通告に打ちひしがれながら、2014年秋、たった1人で赤宇木の記録誌を作り始めた。

タイトルは「百年後の子孫(こども)たちへ」。

赤宇木は85世帯約230人が暮らす美しい集落だった。秋にはお互いに収穫した作物を持ち寄り、小さな祭りを楽しんだ。

「誰もが故郷に思い出があるはずだ。本当に100年後に帰れるのなら、その思いを子孫に語り継がなければいけないと思ったんだ」

福島県内外で避難生活を送っている住民に家族の歴史や記憶をつづったメモを郵送してもらい、高齢で返信ができない人には義人さん自らが避難先を訪ねて聞き取っていった。

今野義人さんの取材ノート。赤宇木の方言などが細かな字で書き記されている=2019年12月、福島県白河市、小玉重隆撮影
今野義人さんの取材ノート。赤宇木の方言などが細かな字で書き記されている=2019年12月、福島県白河市、小玉重隆撮影

大作が完成「でも、なぜか悲しいのです」

編集作業にかかった年月は丸5年。深夜まで不慣れなパソコンに向き合い続け、2020年2月、協力者の力を借りてようやく脱稿にこぎ着けた。新型コロナの影響で製本作業は遅れているが、住民から借りた思い出の写真や、全世帯のエピソードをちりばめた、A4サイズ約600ページの大作だ。

避難先である白河市の山裾にある一軒家。義人さんは、完成した原稿の一部が映し出されたパソコン画面を見つめながら、「でも、なぜか悲しいのです」と私に言った。

赤宇木の住民は現在約190人。この9年半で、すでに約40人が亡くなってしまった。

「年を追うごとに、知人や親類が減っていく。赤宇木の記憶や故郷に戻りたいという思いも、同じように減っていくのだろうか」

 

東京電力福島第一原発の事故後、全域が帰還困難区域になった福島県浪江町の「旧津島村」(現・津島地区)。原発事故で散り散りになった住民たちを南相馬支局の三浦英之記者が訪ね歩くルポ「帰れない村 福島・旧津島村の10年」。毎週水曜日の配信予定です。

三浦英之 2000年、朝日新聞に入社。南三陸駐在、アフリカ特派員などを経て、現在、南相馬支局員。『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』で第13回開高健ノンフィクション賞、『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』(布施祐仁氏との共著)で第18回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、『牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って』で第25回小学館ノンフィクション大賞を受賞。

南相馬支局員として、原発被災地の取材を続ける三浦英之記者
南相馬支局員として、原発被災地の取材を続ける三浦英之記者

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