お金と仕事
元“野獣”松本薫さん、金メダル後も現役続行「子どもができたから」
「ロンドン五輪後に引退をしていたら、一生柔道にしがみついていたかもしれません」
お金と仕事
「ロンドン五輪後に引退をしていたら、一生柔道にしがみついていたかもしれません」
元柔道家の松本薫さん(32)は、「天才ではなかった」からこそ、どうやったら勝てるかを常に考えてきました。24歳で出場したロンドン五輪では、柔道女子57キロ級で金メダル獲得。結婚を経て考えたのは「子どもができたら柔道を続けよう、子どもができなかったら柔道をやめよう」。選手時代は「スランプがなかった」というほど、自分の課題を把握していた松本さん。選手引退後も、自分らしい働き方を見出した松本さんに、女性アスリートのキャリアの築き方を聞きました。(ライター・小野ヒデコ)
松本薫(まつもと・かおり)
私は5人兄弟の4番目なのですが、柔道を始めたきっかけは1番上の兄が柔道を習い始めたことでした。親が「(長兄は)優しすぎるから」という理由で道場に通わせたのを皮切りに、上から順に兄姉弟と続きました。
全国大会で実績を残す強い道場で、練習や作法が厳しく、正直私は通いたくなかったんです。でも当時6歳だった私は、母の「お菓子あげるから、やってみん?」という言葉に乗せられてしまい(笑)。それから柔道漬けの日々が始まりました。
自分の凡人さに気づいたのは、10代後半です。柔道にはジュニアとシニアという階級があるのですが、当時は20歳までにシニア昇格できないと、日本代表などの強化選手に選ばれないことになっていました。
どうやったら勝てるか。私が試合で100%力を出しても、相手も100%の力を出してきたら勝てない。それだったら、「相手の力を80%に引きずりおろそう」と思うに至りました。
どうのようにして、相手の力を下げるか。鍵となるのは「試合前」でした。対戦相手のアップ姿を見て、もし調子が良さそうだったら、わざと相手の視界に入り、目を合わせ、ガンを飛ばすような目つきで相手のことを見据えます。そうすると、相手は私のことを意識するようになり、力が入ります。
一方、対戦相手が力んでいると感じたら、視界に入った後、今度は薄ら笑いを浮かべた表情で相手と目を合わせます。そうすると、相手は私のことを不気味に感じる。そうして相手のコンディションを乱すことで、自分の方が有利な立場を築くようにしていました。
経験上、私のような手段をとる選手はいませんでしたね。この戦法を「せこい」と思う人もいたかもしれませんが、私は勝ちたかった。相手や周りにどう思われようが、結果を残して勝つことを優先順位のトップに置きました。
畳の上だけが戦いだとは思っていませんでしたし、プライドや美学はどうでもよかった。そうやって勝ちにこだわって戦う姿勢が、「野獣」というあだ名へとつながったのかもしれません。
「天才」というのは、頭で考えなくても頭と体が一体化しているんですよね。そのため、「この技はどうやるの」と聞いても「ちょんちょんってやるんだよ」と言われる。「その“ちょんちょん”がわからないんだよ!」と心の中でツッコミましたよ(笑)
私は天才ではありませんでした。そのため、練習で意識したのはイメージ通りに体を動かせるようになること。「思考と体の一体化」を鍛え続けた結果、勝った時も負けた時も、その理由を言葉で説明できました。
そのせいか、振り返るとスランプはありませんでしたね。常に自分の課題を把握していたので、次にやるべきことが明確にわかっていました。
将来、柔道で食べていこうと決めたのは大学1年生の18歳の時です。20歳の時に北京五輪の補欠選手に選ばれたのですが、本番にはほぼ100%出場できないとわかっていました。
そこで北京五輪ではなく、その次のロンドン五輪に向けて早々に切り替えをしました。
大学1年次に4年計画を立て、大学3年の時に目標達成をするロードマップを立てたのですが、1年早くその目標を達成してしまいました。これは喜ばしいことではなく、困ったことでした。
大学2年でピークに達したので、その後も勝ち続けないといけなくなりました。もし、大学3、4年のときに結果が出なかったら「もう成長しない」と思われ、卒業後の所属先が見つからなくなる可能性があったからです。
幸い、大学2年生の時に、声をかけてもらった企業がありました。それが、現在も勤めているベネシードです。ここに就職を決めた理由は大きく二つあります。
一つは、柔道を自由にさせてもらえる環境があったこと。自分で稽古先や練習内容を決めたかったので、ありがたいと思いました。もう一つは、会長の「アスリートの引退後も面倒を見る」という思いに惹かれたこと。
引退後の働き口の保証があったことで、現役時代は先のことを心配せず、競技に打ち込むことができました。今もこうしてセカンドキャリアを築けている背景には、ベネシードとの出会いがあったからだと思っています。
五輪では、金メダル以外は眼中にありませんでした。これは柔道特有なのですが、国内外の大会において金メダル受賞以外は評価されない、という風土があります。優勝しないと「他の選手に負けた」ことになるんですね。
私はロンドン五輪の日本代表になり、念願の金メダルを勝ち取ることができました。頂点を極めたので、ここで引退してもよかったのですが、そうしなかった理由は主に二つありました。
よく、「富士山に登ったら人生観が変わる」と聞きますが、私は五輪金メダリストになっても、全然世界が変わらなかったんですね。「なんでー!?」と自問自答しました(笑)。
確かに周りからは注目されるようになりましたが、自分の中では変化ナシ。当時24歳で、まだ現役を続けられる年齢だったため、「もう一回五輪に出たら、違う景色が見えるかもしれない」と思いました。
もう一つは、「引退したら何が残るか」と考えたとき、今の自分には何も残らないと思ったんです。それに、もし将来母親になり、自分の子どもがアスリートになって金メダリストになったとして、「もう一回金メダルを目指したい」って言われたら、私は何も伝えられないと思いました。そこで、4年後の2016年リオデジャネイロ五輪を目指すことを決めました。
私は結婚願望が強く、20代前半で結婚したいと思っていました。ロンドン五輪後、当時交際していた今の夫との結婚を意識したのですが、その時はまだ、結婚後も現役を続ける女性選手が少ない時代でした。肩身が狭いと感じてしまい、結婚時期を次のリオ五輪まで伸ばすことにしました。
そして4年の努力が実を結び、リオ五輪に出場することができました。結果は銅メダル。金メダルではなかったですが、メダルを獲得できたことは素直にうれしかったです。
その時、28歳。年齢的に、結婚しても誰も何も言わないだろうと思い、入籍をしました。その際、一つ決めたことがあります。それは、「子どもができたら柔道を続けよう、子どもができなかったら柔道をやめよう」ということ。
女性選手にとって、結婚、出産はよろこばしいことである一方、現役を続けるか否かの分かれ道にもなります。当時スポーツ界において、出産後に復帰をして現役を続ける女性選手はほとんどいませんでした。
自分がその事例を作っていきたいと思ったんです。幸い、結婚翌年に第一子を授かりました。そのため、現役を続ける道を選びました。今のスポーツ界で何が足りないのか。理解なのか、設備なのか、制度なのか。それを体験しようと思ったんです。
出産後、1カ月で練習を再開しました。授乳もしながらの現役復帰だったのですが、産後の体は予想以上に脆(もろ)くなっていました。母乳を作るのに栄養分を取られるせいか、両脛(すね)を疲労骨折しました。
授乳は半年でやめたのですが、後遺症は残りました。結果的に、両脛(すね)にひびが24カ所ずつ入った疲労骨折をしていて、いつ折れてもおかしくない状態になっていました。女性アスリート支援の一環で、産後の支援を利用して治療を受けていたのですが、良くなりませんでした。
支援があったのは本当にありがたかったのですが、「痒い所に手が届いていない」と感じることも正直ありました。ある強化合宿に参加する際、生後数ヶ月の子どもを連れて行った時のことです。
ベビーシッターの方を派遣してもらえたのですが、子どもの面倒を見てくれるのは「練習時間」でした。アスリートは練習後の「休息」の時間も大切です。他の選手が練習後に休んでいる間、私は休む間もなく、子供の面倒を見ながら、流し込むように食事をとっていました。
それを見かねた他の選手たちが「お風呂だけでもゆっくり入ってきなよ」って言ってくれることもあり、周りに助けられたと感じています。
「子どもができたら柔道をしよう」という思いのもと復帰をしたので、両立の大変さは覚悟をしていました。子どもは生後4カ月で保育園に預けることができたのですが、まぁ呼び出しが多いこと(笑)
試合前の1週間は、微調整がとても大切な時です。アップが終わって、今から練習!と言う時に、保育園から「熱が出たのでお迎えに来てください」という電話がかかってきたことは一度や二度ではありません。
ただでさえピリピリしている時に、その時は、「わー……」ってなりましたね。でも、もうこればっかりは諦める!仕方ないので。
とはいえ、着替え中も、迎えに行く間も「まじか、まじか」ってつぶやいたり、家に帰っても「積み上げが一つ減ったから、どこで補おうか」と思ったり、途方に暮れることもありました。
夫とも協力して育児、家事をこなす毎日で、「試合までピリピリするからね!」と伝え、「わかった!」と夫が言うというやりとりをしていましたね。
引退がちらついたのは、復帰後2回目の試合でした。その試合中、今まで感じたことがない感情が出てきました。そこではっきりとわかったのは、「自分はもう勝負師ではなくなった」ということでした。
1/14枚