連載
大河ドラマが「観光地」をつくった…「ある土産」がない川越の歴史
鍵は「春日局」…ファンシー絵みやげで辿る観光史
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鍵は「春日局」…ファンシー絵みやげで辿る観光史
バブル時代がピークで、新しい商品を「出せば売れる」と言われたほど、修学旅行の子どもたちを中心に買われていきました。バブル崩壊とともに段々と姿を消し、今では探してもなかなか見つからない絶滅危惧種となっています。
しかし、限定的な期間で作られていたからこそ、当時の時代の空気感を色濃く残した「文化遺産」でもあります。私はファンシー絵みやげの実態を調査し、その生存個体を「保護」するため、全国を回ってきました。
渋すぎる場所で子どもが楽しめなかったり、ぐずったりした場合には「何か買ってあげる」ということが有効だったりします。とりあえず遊べるパズルなどのファンシー絵みやげを購入し、それに興じさせてる間に親が観光するという光景もありました。
こうした需要もあり、「ここには無いだろう」と思える民芸品専門店や陶芸品専門店などであっても、念のため聞いてみると見つかったりします。
山下メロ
店の方
店の方
バブル景気により、「出せば売れる」という状況。そして人口のボリュームゾーンである子どもがたくさん来店する状況。この状況で、ファンシー絵みやげを扱わないという選択肢をした店はあまりなかったようです。
しかし、そのような「ファンシー絵みやげ全盛期」において、特定の店だけでなく「観光地全体」でファンシー絵みやげを扱わなかったと思われる場所が存在します。一体なぜなのでしょうか。
しかし最後の店で、地名は入っていませんがファンシーなキツネのキーホルダーが1つだけ見つかりました。
1つあるということは、他にもあった可能性があります。しかし、店の方はあまり話したくなさそうでした。よくよく聞くと、寺院の敷地で商売しているため、寺院の意向で取り扱う商品について制限されているというお話でした。
見つけたキツネのキーホルダーは、制限される前に作ったもの、もしくはその後に隠れて作ったものかもしれません。いずれにせよ今ではタブーのような存在になっていました。
その後、リサイクルショップなどでその寺院のファンシー絵みやげを発見しましたので、やはりファンシー絵みやげが作られ、売られていた時代が確かにあったようです。
ファンシー絵みやげが見つからない理由をひもといていくと、その観光地の成り立ちに行き着くこともあります。
私にとって、どうしてもファンシー絵みやげを見つけたい観光地として埼玉県の川越がありました。
関東地方の小江戸として有名で、蔵造りの街並み、時の鐘、喜多院、本丸御殿など川越には観光スポットがたくさんあり、その蔵造りを使ったお店もたくさんあります。
そんな埼玉県屈指の観光名所である川越ですが、なぜかファンシー絵みやげが見つからないのです。
川越に比べマイナーと言えるような観光地であっても、その地名が印刷されたファンシー絵みやげを見つけてきました。なので、人気観光地である川越には、当然ファンシー絵みやげもたくさんあるものだと思っていました。
あまりに見つからないので、以前テレビ埼玉の情報番組に生出演したとき、視聴者の方に川越ファンシー絵みやげの情報を送ってくださいと呼びかけたこともあるほどです。しかし、それでも手がかりは寄せられませんでした。
私は、まさにバブルのころ川越に住んでいましたので、小学校の行事などで何度も川越の観光名所に行きました。しかしその時のことを思い出してみても、ファンシー絵みやげを見た記憶がないのです。
もしかすると川越は、観光地のイメージを守るために伝統的な商品以外を排除する方針だったのでは……。もしそうだとすると、全国的にみてかなり珍しい観光地ということになります。
しかし、すでに現地には残されていないだけで、当時買った人から手に入れられていないだけの可能性もあります。本当にファンシー絵みやげが存在しなかったのかどうかを確認するため、別の地域のファンシー絵みやげを見せながら現地で聞き込み調査をしました。
どこの土産店でも「うちの店では売ったことないね」という回答でしたが、とある同世代くらいの店員の方はこんな反応でした。
「懐かしい!小さいころ旅行に行ったときに買ってた! でも、ここらへんでは見たことないね。ずっと川越に住んでるけど……」
これは有力な情報です。家業がずっと観光業で、ファンシー絵みやげのターゲットだった世代の方が見たことがない。そうなると、いよいよ存在しなかった説が濃厚になってきました。では、なぜ川越にファンシー絵みやげが存在しなかったのでしょうか。
まずは街角にある観光協会に相談しました。しかし、当時を知る人もおらず、情報も持っていないということでした。そして、昔の話であれば商工会議所に聞いたほうが良いと教えていただきました。
商工会議所では、職員の方が丁寧に対応してくださいました。話を聞くと、川越が盛り上がるきっかけとなったのは1989年のNHK大河ドラマ『春日局』でした。
その目玉となったのが、川越にある寺院「喜多院」にある「春日局化粧の間」。「春日局化粧の間」はもともと江戸城紅葉山御殿にあり、1638年の川越大火によって喜多院に移築されたものです。喜多院へ行けば春日局の部屋が見られるということで、川越への観光客が徐々に増えていったそうです。
しかし放送当時まで、地元は観光業にはあまり積極的でなかったようです。観光客数の変遷データを見せていただきながら、『春日局』の影響で1989年からだんだんと観光客が増えていったことを教えていただきました。徐々に川越という町に注目が集まり、色々と環境を整備していったようです。
そういえば、以前『さきたま紀行』(埼玉新聞社出版部 昭和48年7月1日発行)という、埼玉の観光について書かれた本を読んだことがありました。冒頭に「埼玉県には長瀞と三峰を除いて、これといった著名な観光地がない」と書かれています。昭和48年時点では著名な観光地として川越の名前は挙がっていないのです。
こういった理由から、ファンシー絵みやげが衰退に向かう時期に、観光地として盛り上がっていったのでファンシー絵みやげ作られなかったようです。
こうして私が導き出した答えは、観光地として注目されたタイミングの問題でした。2007年の世界遺産登録で注目が集まった島根県の石見銀山でファンシー絵みやげが見つからなかったのと似ています。
伝統的な蔵造りの町並みは、なんとなくずっと昔から人気観光地のような気がしていましたが、思わぬ歴史がありました。小学生時代に住んでいた川越の一面を、大人になってからこうして知るというのは、大変感慨深いものです。
そして、あれだけ全国各地で爆発的に作られたファンシー絵みやげの波に乗らなくても、ちゃんと人気観光地になれたということです。
それは、自分の故郷の1つとして頼もしいような、ファンシー絵みやげを愛する者としては寂しいような、複雑な気分なのです。
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