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「妻なき人の妻となり…」237年前の土石流、生き延びた村人の決断

「日本のポンペイ」が伝える災禍

土石流から逃れようとした住民の運命を分けた石段(左)と、1979年に発掘された石段と遺体の様子
土石流から逃れようとした住民の運命を分けた石段(左)と、1979年に発掘された石段と遺体の様子 出典: 朝日新聞

目次

群馬県嬬恋村鎌原(かんばら)地区、どこにでもありそうな小さな観音堂に、地域内外の人たちが次々とお参りにやってくる。観音堂へは小さな赤い橋を渡り、15段の石段を上る。ただ、橋の下を見ると、石段は掘り起こされた地下にも続いている。477人が亡くなり、助かったのは石段を上り切った93人だけ。〈妻なき人の妻となり〉〈主なき人の主となり〉。237年前に火山の噴火による壮絶な経験を現代に伝える「日本のポンペイ」を訪ねた。(朝日新聞編集委員・東野真和)

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運命を分けた「50段」

観音堂へは小さな赤い橋を渡り、15段の石段を上る。実はこの石段は50段あった。江戸中期の天明3年(1783年)、12キロ先に火口がある浅間山の噴火に伴う溶岩が土石流になって襲い、35段分が埋まったのだ。

人口570人の鎌原地区一帯は、深さ5~6メートルの土石流で覆われ、477人が巻き込まれて亡くなり、石段を上り切った93人だけが助かった。観音堂は、噴火前から残る唯一の建物だ。

火山の噴火で埋没したイタリアの古代都市、ポンペイになぞらえて「日本のポンペイ」とも言われる。

観音堂や中の本尊は噴火前から残っている
観音堂や中の本尊は噴火前から残っている 出典: 朝日新聞

あと一歩で……犠牲になった母娘?も

1979年に、観音堂付近などで発掘調査が行われて、下に35段分の石段が見つかった。そこから女性2人の白骨化した遺体が折り重なって見つかった。

まだ皮膚の一部や目、髪、頭巾なども残っていた。1人の髪は白髪だった。髪の結い方や骨の鑑定などの結果、若い女性が老婆を背負って石段を上っていて、あと一歩の所で土石流の飲まれたようだった。「おそらく娘が母を助けようと懸命に石段を上ったんだろう」と住民は推測する。遺体は手厚く葬られた。

鎌原地区に当時から残る建物は、この観音堂だけだ。だが、当時の様子は、237年たった今も、しっかりと語り継がれている。それは、当時の様子を「和讃」という御詠歌のような節の歌にして、毎月2回、住民が集まって念仏とともに唱え、伝承し続けているからだ。

以前は、各家を時計回りにまわっていたが、最近は、多目的センターに集まって唱えている。全犠牲者477人の名前と当時の年齢が記された掛け軸も掲げられる。

観音堂の下に掲示された1979年に発掘された石段と遺体の様子
観音堂の下に掲示された1979年に発掘された石段と遺体の様子 出典: 朝日新聞

「現地復興」しかなかった時代

〈村村あまたある中で一のあわれは鎌原よ人畜田畑家屋まで皆泥海の下となり……〉

今歌われている「浅間山噴火大和讃」は、明治初めにできたが、それより前にあった歌を作り直したようだ。その内容から、悲しみにくれる人々の前に僧侶が訪れ、念仏を唱え、亡くなった人を弔い、悲しみをいやしていった経緯や、以来、人々は念仏を唱え続け、歌い継がれている和讃ができたことがうかがえる。

「なぜ200年以上も、続いているんですか」と、伝承している「奉仕会」の人たちに聞いたが、みんな「この土の下に先祖が埋まっている。弔わなきゃ、と特に意識することなく続いてきている。なぜと言われても……」

村がどう復興していったかも、和讃の中で詳細に歌われている。

今なら、そんな恐ろしい場所を離れ、それぞれに移住してしまうかもしれない。しかし江戸時代は自由な移動は許されない。その場で生活を再建させるしかなかった。「現地復興」をした点が、ポンペイとは異なる。

犠牲者の名と年齢が記された掛け軸。これを掲げて和讃と念仏が唱えられる
犠牲者の名と年齢が記された掛け軸。これを掲げて和讃と念仏が唱えられる 出典: 朝日新聞

復興のためにした決断

〈七日七夜のその間呑(の)まず食わずに泣き明かす〉日々を送り、〈隣村有志の情にて〉おにぎりなどの炊き出しをして支えられて生き延びた、そして村人は、復興のために、決断する。

〈妻なき人の妻となり〉〈主なき人の主となり〉……。つまり、同じ境遇の93人が一族になる契りを結んだ。

そして、「士農工商」の時代にもかかわらず、身分財産に関係なく、親を失った子には子を失った親を、老夫婦だけになった家には若者を、と家族を補い合って、10世帯に再構成した。そして、村の土地を、短冊状に平等に分けて住むことにした。

平等に区画整理された鎌原地区の地図
平等に区画整理された鎌原地区の地図 出典: 朝日新聞

戒名に残る「水」「流」

その「区画整理」は、今もそのまま、石で仕切りを造って残っている。

記録によると、30年後には21軒になり、三十三回忌で石碑を建てて、全員の戒名を彫った。参道の入り口に残っている。よく見ると、「水」「流」などの文字が目立つ。86年後の明治2(1869)年に、ほぼ元の人口規模に戻った。

村には温泉を引いた跡も残っている。噴火後の溶岩が止まった付近で一時期、温泉が出たため、それを使って温泉宿を始め、土石流で荒れた土地に産業を興し、復興に寄与した。

嬬恋郷土資料館友の会会長で、ガイドボランティアの宮﨑光男さん(66)は、元小学校長。発掘調査を見学した経験もあり、鎌原の復興の歴史を15年以上、伝え続けている。

「来ていただければ区画の名残だけでなく、噴火から5年後にできた備蓄倉庫や、12年後に建てた神社、14年後にできた道祖神など、復興の軌跡がわかります。畑を見ると、今も土石流の石ころだらけ。その荒れ地から作物を育てて今はキャベツやキュウリの産地になっています」と話す。

観音堂横の部屋で村人がいろりを囲んでもてなし、当時の様子を語る。今はコロナ禍のため自粛している
観音堂横の部屋で村人がいろりを囲んでもてなし、当時の様子を語る。今はコロナ禍のため自粛している 出典: 朝日新聞

2016年の「恩返し」

東日本大震災や熊本地震、その後の各地の豪雨災害の現地で復興について取材してきた私が鎌原に足を運んだのは、「災禍の伝承」と「復興のあり方」について学びたかったからだった。

取材を進める中で、2つの偶然があった。

一つは、私が2011年の東日本大震災後に3年間駐在していた岩手県大槌町の親しい被災者が、鎌原に来て津波の体験を語っていた。その動画が残っていて見せてくれた。大槌町の郷土芸能「臼沢鹿子踊(うすざわししおどり)」の一団も来て、追悼の舞をしたと聞いた。

もう一つは、私が2016年の熊本地震後、2年間駐在していた熊本県南阿蘇村とのつながりだった。噴火被害の復旧工事は江戸幕府が行ったが、その費用の大半にあたる10万両を熊本藩が負担していた。今でいう100億円くらいの金額になる。藩の財政だけではまかなえず、藩士や領民から寄付を募ったと伝えられている。熊本藩がかき集めた10万両の一部は、鎌原にも割り当てられたという。

熊本地震後、今度はその恩返しとして鎌原地区の住民は義援金を集めた。そのお金は、嬬恋村が別に募ったお金とともに、同村と同じ東海大学の施設がある南阿蘇村に届けられた。

忘れずにいたのは、噴火の記憶だけではなかったのだ。

普段なら、訪れる人たちに野菜をふるまいながら語り部として当時の様子を伝えてくれる鎌原の人たち。今はコロナ禍で、和讃や念仏を唱える集会も開かれずにいる。8月5日は毎年、お盆の供養の日だが、やはり自粛した。落ち着いたら一度、「日本のポンペイ」を体験してみてほしい。きっと、変わらない温かさとともに、237年語り継がれた歴史を実感できると思う。

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