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「大本営発表」の大本営に地下壕、その中は? 四半世紀ぶり公開前に
「大本営の地下壕が取材できる」というので、東京・市ケ谷の防衛省に行ってきました。大本営といえばかつて日本で戦争を遂行した最高機関で、その貴重な遺構です。戦果を誇張した「大本営発表」のイメージが戦後75年の今もつきまとうだけに、リアルはいかに……。(朝日新聞編集委員・藤田直央)
報道陣は3月18日、市ケ谷の高台にある防衛省A棟ロビーに集合。木々の間の歩道を敷地の端へ進み、靖国通りと同じ高さまで下っていくと、脇の断層に鉄筋むき出しのコンクリート壁が現れ、「大本営地下壕」の真新しい案内板がある入り口に着きました。正確には「大本営陸軍部地下壕」です。
東京・市ケ谷の防衛省にある戦時中の大本営地下壕を取材。耐震工事が終わり四半世紀ぶりの一般公開は4月からだったのがコロナで未定になったそうで、一足先に動画をいくつかご紹介します。 pic.twitter.com/zf03nzeOZG
— 藤田直央 (@naotakafujita) March 18, 2020
戦前は戦争遂行の際、日本軍を統帥する天皇の下に陸軍と海軍で大本営を設けました。その陸軍側の中枢が大本営陸軍部で、先ほどの防衛省A棟あたりの高台にかつて庁舎がありました。直下からずれた地下15mのところに壕を作り、地下通路でつないだのです。
入り口でヘルメットを着け、細い通路を10mほど進むと、広さが倍ほどの壕に出ます。高さ4m、幅4.6m。旧防衛庁の市ケ谷移転に伴う1994年からの工事を機に一般公開は中断したままでしたが、四半世紀ぶりの再開へ、耐震と老朽化対策の工事を2月に終えたばかりです。
防衛省にある戦時中の大本営地下壕を取材その2。入り口からヘルメットをつけて進みます。 pic.twitter.com/2nW7TweEoA
— 藤田直央 (@naotakafujita) March 18, 2020
地下壕の完成は78年前の1942年で、太平洋戦争開戦の翌年です。建設開始は41年8月で、海軍連合艦隊による真珠湾攻撃の4カ月前。陸軍はその頃から米軍による東京空襲を想定し、地下壕を造り始めていたことになります。
地下壕は南北52mの壕3本、東西48mの壕2本が交差する構造です。報道陣が入れたのは一般公開予定の範囲と同じでした。入り口から歩いてきた南北の壕1本目の半分ほど、東西の壕1本目と交差するあたりまでです。
予算1億円弱でできた工事がここまででした。柵のところから南北の壕の奥を見ると、公開範囲と違い天井から細い鉄筋が何本も突き出したままでした。厚さ約1mというコンクリート壁のモルタルの表面からは地下水がにじみ、床には水たまり。その水を抜くのにかつての排水口を今も使います。
南北の壕の壁には"No Smoking"の文字がありました。戦後に市ケ谷の旧陸軍施設は日本を占領したGHQ(連合国軍総司令部)に接収されました。この地下壕も米軍に使われ、返還されたのは1952年の主権回復からさらに7年後です。
90度右へ向きを変え、南北の壕1本目と交差する東西の壕の方を柵から見やると、南北の壕2本目との交差点にむき出しの太い鉄骨が2本、柱として壕を貫いていました。その先には土台だけになった陸軍大臣室や通信室の跡が少し見えました。
防衛省にある戦時中の #大本営地下壕 取材その3。公開エリアに入ります。 pic.twitter.com/YbzPbwBbWy
— 藤田直央 (@naotakafujita) March 18, 2020
壕内にはほかに浴室や炊事場、受水槽の跡もありますが、柵があって行けません(フォトギャラの提供写真をご覧下さい)。入り口から少し入ったところにあったという「500kg弾に耐え得る堅固な鉄扉」は今はありません。一般公開予定の範囲で見られるのは便所の跡で、床にこんな感じで並んでいました。
地下壕での取材は1時間弱で終了。もう少し撮影をと残るうちに30人ほどの報道陣が徐々に減り、静けさが増していきます。細い通路を戻って外へ出て、靖国通りのビル街を目にし、車の音を聞くと、少しほっとしました。
防衛省にある戦時中の #大本営地下壕 取材その4(完)。通路から外へ出ると、タイムスリップしたように市ケ谷のビル街です。 pic.twitter.com/s3QgqVSew9
— 藤田直央 (@naotakafujita) March 18, 2020
歩道の坂を上り、地下壕の真上あたりの公園へ。最後に見たのは高さ2~3mの大きな石灯籠2基でした。なぜ石灯籠かというと、地下壕の天井にあった穴からつながる通気筒の偽装なのです。当時は日本庭園で違和感はなかったそうで、今は防衛省庁舎のビル群をバックに、草木に埋もれて佇んでいました。
ちなみに大本営地下壕の一般公開は4月からの予定でしたが、新型コロナウイルス感染拡大で未定になっています。報道陣を案内した防衛省広報課の杉山淳紀さんは「公開されたら多くの方に歴史の重みを肌で感じ、平和を考えるきっかけにしていただければ」と話しました。
百聞は一見にしかず。地下壕といっても堅固な構築物で、東西と南北に複数のトンネルを同じ深さで掘って正確に組み合わせていました。為体の知れない「大本営発表」のもやもやしたイメージは少し晴れました。
それでも、太平洋戦争という激動期に軍の中枢に築かれた遺構としてはちょっとあっさりしていたように感じました。それは10年前の沖縄勤務時に訪れていた、豊見城市の高台にある旧海軍司令部壕を思い出したからです。
そこでは、うねり入り組んだ地下壕の3分の2にあたる300mが復元、公開されており、沖縄戦で追い込まれた将校らが自決した場所もあります。資料館には兵士らの銃や水筒、穴を掘ったつるはしなどが、米軍との戦闘の経緯とともに展示されています。
もちろん、同じ壕でも激戦地の沖縄と、軍中枢の市ケ谷ではかなり性格が異なります。それでも大本営地下壕に関する防衛省の説明で残念だったのは、当時の壕内の様子について「資料がなくて……」ということで具体的に聞けなかった事です。
私がかつて取材した旧陸軍将官は、「市ケ谷では敗戦直後から、占領される前に急いで資料をどんどん焼き、煙が何日も空にのぼっていた」と話していました。その中に地下壕での活動の記録も入っていたかもしれません。
ただ、あの戦争を主導した陸軍の中枢があった市ケ谷です。この大本営地下壕にも「戦争の歴史を後世に伝える貴重な建造物」(杉山さん)として、まだ語れる事があるはずです。
一端を示す逸話が、入り口の案内板の隅に記されていました。45年8月15日に割腹自殺した阿南惟幾陸軍相についてでした。
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