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ゴーン被告と「フェアレディZ」の数奇な運命「前からファンだった」
国外逃亡先のレバノンで1月8日、記者会見を開いた日産自動車の前会長カルロス・ゴーン被告は、車ファンにとって忘れられない決断をしていました。「コストカッター」として業績回復を達成した2002年、「フェアレディZ」を復活させたのです。熱狂的な愛好家のファンクラブや、海外にも多くのファンがいる名車。実は、ゴーン被告も、日産の経営に関わる前から「ファンだった」と明かしています。日産の顔となった「フェアレディZ」の数奇な歴史をたどります。
1960年に発表された最初のダットサンフェアレディはオープンカーで、まだZは付いていませんでした。
フェアレディ(貴婦人)という名前は、誰もが知っているミュージカル「マイ・フェア・レディ」にちなんでつけられました。
性能は「相当のじゃじゃ馬」で、1963年の第1回日本グランプリのスポーツカーレースB2クラスで、外車勢を相手に優勝を果たしています。Zの付くフェアレディが生まれたのは1969年で、車体を強化するためにオープンから屋根付きに変更されました。
「日産のシンボル」として「Z」がつけられました。海外にも輸出され、多くのファンを生みました。
1978、1983、1989年とモデルチェンジを重ねましたが、2000年8月に生産中止となります。日産の業績が低迷し、販売車種を絞ったあおりを受けた結果でした。
そこで登場したのが、ゴーン被告です。
1999年に日産はルノーの資本参加を受け、ゴーン被告が社長につきます。ゴーン被告の改革で日産は低迷期を脱出、復興の象徴として2002年、フェアレディZを復活させました。
ゴーン被告は「ブランド力の回復に貢献する」と主張して決断。1969年発売の初代から5代目に当たり、丸みをもたせて外観を一新。排気量3.5リットルエンジンを搭載しました。米国でも同時発売されました。
日産の経営に加わる前から「Z」ファンだったというゴーン被告は、発表会見で「日産の再生を具現化したシンボルだ」と述べ、日産にとって課題となっているブランド力の復活に役立つことを期待していました。
「フェアレディZ」を語る上では欠かせない人物がいます。2015年に亡くなった「米国日産」初代社長の片山豊さんです。
片山さんは、1965年から日産自動車米国法人の初代社長を務め、初代Zの開発構想にも携わり、「フェアレディZ」の生みの親として知られています。
片山さんが手がけた1969年発売の初代Z(S30型)は、手頃な価格とスタイリッシュなデザインで、北米市場で人気が爆発しました。
1969年の発売後は、地道な販売努力で米国市場に定着させ、「Zカーの父」とも呼ばれました。その功績が認められ、日米両国で自動車殿堂入りしています。
2008年12月には、6年ぶりに全面改良します。世界の自動車市場の急激な縮小という「逆風」のなかでの発売でしたが、志賀俊之・最高執行責任者(COO=当時)は「車の開発には何年もかかる。厳しいときにこそ走る喜びを知って欲しい」と話していました。
2015年には、音響システムを改良した「フェアレディZ バージョンST」などを売り出しました。室内の天井に集音マイクを新たに付け、ドライバーに不快に響くエンジンや車体の低周波音を検知。スピーカーからその音を打ち消す制御音を出し、相殺することで車内の静かさを維持する機能をつけました。
2017年7月には、より伸びのある加速感を感じられるよう、一部を改良して売り出しました。走行性能を高めたほか、前後のランプ周辺のデザインを変えて力強い印象を強調。見る角度によって色彩が変わる新色「カーマインレッド」も加えました。
復活後、改良を重ねている「フェアレディZ」ですが、日産公認の家具まで生まれています。
焼津市内に家具工房「木工のデン」を構える神野克昭さんは、フェアレディZの座り心地再現したダイニングチェア「GTチェアー FAIRLADY Z」を手がけています。
カーマニアの神野さんが「本当に作りたい家具」を追求し、マニア仲間から実車の運転席を借りてデザインの参考にしました。
オーク材で骨組みを作り、シートが全身を包むようなスポーツカーの座り心地を再現。座面の下には強力なゴムバンドと布を網状に貼って実車と同様のクッションにしています。
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