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連載

#3 平成炎上史

平成炎上史、繰り返される「生活保護バッシング」の行き着く先は……

役所に掲げられた「生活保護」の窓口の看板
役所に掲げられた「生活保護」の窓口の看板 出典: 朝日新聞

目次

ネット上の「生活保護バッシング」は、なぜ繰り返されるのか。平成は「個人による個人監視」という異様な世界を生み出した。2012年、あるお笑い芸人の母親が生活保護を受けていることが発端となり、国会議員を巻き込む騒動となった。その後もやまないバッシングの連鎖。「ゲスの勘繰り」が行き着く先とは……。

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2012年に起きた「あの騒動」

「誰かが得をしている」=「自分が損をしている」という短絡的な思考で、特定の他者に敵意を向ける感受性が今ほど先鋭化している時代はないだろう。

昭和の終わり頃にすでに種がまかれていたとはいえ、数多の「炎上」を引き起こす不安の芽は、平成に入って社会全体を覆い尽くすほどに成長した。

2012年にある週刊誌の記事がきっかけとなって、お笑い芸人の河本準一の母親が生活保護受給者であることが報じられ、参議院議員の片山さつきが不正受給疑惑の問題へと発展させた。

これが呼び水となり、ネットではソーシャルメディアなどで河本個人に対する攻撃的な言動を行なうユーザーが拡大し、テレビを中心に「誤報」を交えた扇情的な報道がなされたことも手伝って、「生活保護バッシング」と称されるものが吹き荒れることになった。

以後、生活保護にまつわる問題は、ガソリン級の炎上を誘発しやすい、燃焼性の高い案件として現在に至っている。

有権者に握手を求めて歩く片山さつき氏=2005年8月27日、静岡県浜松市のJR浜松駅前で
有権者に握手を求めて歩く片山さつき氏=2005年8月27日、静岡県浜松市のJR浜松駅前で 出典: 朝日新聞

「損得勘定」に異常なほど敏感

わたしたちがまず確認しておかなければならないのは、わたしたちが置かれている経済的または心理的な状況だ。

先進国の多くで国民が「損得勘定」に異常なほど敏感になっており、富裕層や貧困層などの階層をターゲットに怒りを爆発させることが日常茶飯事になっている。

これは「自分のライフスタイル」と「他人のライフスタイル」を比較することが大きな関心事となり、そのずれに不満や欠乏の感情を抱きやすくなっているからだ。しかも、比較の対象範囲は上下左右を問わず全方位に拡大している。

報酬とアイデンティティのカオス

社会学者のジョック・ヤングはこのことについて、「報酬のカオス」と「アイデンティティのカオス」が背景にあると説明する。

報酬が個人の能力に応じて公正に配分されているという原則が侵害されることが「報酬のカオス」であり、アイデンティティと社会的価値を保持している感覚が他者に尊重されることが危うくなることが「アイデンティティのカオス」である。

この2つのカオスにわたしたちは直面しているという。

勤勉な大多数の市民は、報酬が支離滅裂な方法で配分されている気配を察知している。こうした報酬配分があまりにも広がったために、社会全体の道理がかなっているとの了解するのは困難である。このような報酬のカオスに対する怒りの矛先は、階級構造の最上部の大金持ちか最底辺層に、つまり労働の対価が明らかに多すぎる人と、働かずに報酬を得ている人に向けられる傾向がある。言い換えれば、あからさまに能力主義の原理を攪乱する者たち、すなわち大金持ちとアンダークラスに敵意が集中するのである。
ジョック・ヤング『後期近代の眩暈―排除から過剰包摂へ』(青土社)
ジョック・ヤング『後期近代の眩暈―排除から過剰包摂へ』(青土社)

「パチンコにつぎ込む中年男性」

ここで重要なのは、多種多様なバックグラウンドを持つ生活保護受給者に対して単一の偏ったイメージが押し付けられることだ。

テレビは「パチンコにつぎ込む中年男性」などのステレオタイプ化された受給者像を喧伝し、「制度の問題」ではなく「人の問題」にすり替えて矯正の必要性をほのめかした。

先の政治家の言説とテレビの報道姿勢の足並みがそろうのは決して偶然ではない。

現実としてわずか3%に満たない不正に憤っているというよりかは、ある思想家が「貧困であることは、ますます犯罪とみなされる」と評したように、「生活保護受給者そのものが不正の温床」に感じられるのである。

「正常ではない」者にカテゴライズ

振り返ると、平成の30年間はこの2つのカオスが社会の隅々に浸透した時代であった。

日々やせ我慢をして自己抑制が求められる「過剰同調社会」の住人であるわたしたちは、憲法で保障される生存権の意義や世界的に低い生活保護の捕捉率を理解する以前に、「働かずに給付を得る怠惰な連中」と決め付け、「正常ではない」者にカテゴライズすることで、自分自身のライフスタイルを型にはめている価値体系を守ろうとするのだ。

ヤングは次のように指摘する。

『かれらとわれら』という二項対立をかき立てることで、アンダークラスは容易にアイデンティティを確立する拠点になる。そこでは『われら』とは、正常で、勤勉で、きちんとした存在であり、『かれら』はこうした本質的資質が欠如した存在である。このような本質主義こそがアンダークラスを同質的でわかりやすく、機能不全な実体として構成し、それを悪魔化する
ジョック・ヤング『後期近代の眩暈―排除から過剰包摂へ』(青土社)
生活保護の説明会で配られたしおり
生活保護の説明会で配られたしおり 出典: 朝日新聞

公的扶助の機能より自尊感情の手当て

これを日本の状況に置き換えると、(国家の隠された欲求である)「福祉の切り捨て」と(国民の隠された欲求である)「われらの優位性」が一致する危険な地点となるのである。

つまり、公的扶助が適正に機能することよりも、自尊感情の手当てが優先されるのだ。

2016年、NHKニュース7で取り上げられた経済的な貧困で進学を断念した高校3年生の女子生徒をめぐり、ネットで炎上が起こったことにそれが如実に表れている。

本人のTwitterを探し当てた者が人気マンガのグッズを購入したり、1000円以上のランチを食べることを批判し始めたのだ。

つまり、そこには「アンダークラスは最低限の衣食住以外の出費をするな」という清貧的なライフスタイルの強制を求める主張が根幹にあった。

「ゲスの勘繰り」の昂進

だが、残念ながら中間層を自任する人々といわゆる貧困層とされる人々の間に明確なライフスタイルの差はなくなりつつある。

仕事も家族も不安定化する一方で、コミュニティの衰退は必至であり、消費を通じた自己実現とオンラインの世界への依存が強まっている。

その文化的な志向性にさほど大きな違いはない。要するに、欲望のレベルで「似たもの同士」であること、表面上の差異が分かりにくいことが、かえって「ゲスの勘繰り」を昂進させることになり、貧困層に対する反発や違和感をもたらすのだ。

相対的貧困への無理解がまさにそうだ。

雨が降る中、通勤する人たち=2017年8月16日、東京駅前、金川雄策撮影
雨が降る中、通勤する人たち=2017年8月16日、東京駅前、金川雄策撮影 出典: 朝日新聞

〝世間体〟という「見えない宗教」

わたしたちが、生活保護の不正受給のような些末な事象を針小棒大に騒ぎ立てるのは、ヤングのいう2つのカオスに恒常的にさらされ不満や欠乏の感情が増大する中で、「かれら」が「自己犠牲として経験される労働」と「消費者の地位を脅かす金銭的不安」から免除されていると見なすからではないか。

つまり、特権的なポジションを付与されていると早合点するがゆえに、それに見合う行動の制限とスティグマ(恥辱、汚名)を要求するのである。

これは、いわばマジョリティとなった社会的つながりの希薄な個人が、自分自身が強いられている規範意識を基準点にするような形で、公的支援を受ける者の道徳的妥当性を吟味するといった、「個人による個人監視」に血道を上げる異様な世界である。

別言すれば、〝世間体〟という「見えない宗教」を中心教義に据える「宗教警察」のごとき振る舞いといえる。

東京・日比谷の派遣村の窓口にできた行=2008年12月31日
東京・日比谷の派遣村の窓口にできた行=2008年12月31日 出典: 朝日新聞

セーフティネットを焼野原に

わたしたちがこのようなモラルパニックに心を奪われること自体が、ここ数十年の社会環境の変化に伴う生存条件の悪化を表している。

わたしたちが本来やるべきことは、そんな荒廃した寄る辺ない世界を少しでも改善する試みしかないはずである。

わたしたちが自分たちの不安な身の上を直視することを避け、特定の階層や人物を問題の根本原因であるかのように叩き続ける限り、その炎上騒動のどさくさに紛れて国家は火事場泥棒的な政策を推し進め、自他のセーフティネットを文字通り焼野原にしてしまうだろう。

最悪の場合、わたしたちを待ち受けているのは、信頼できる仲間が一人もおらず、社会保障もほとんどない暗黒の未来である。

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