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難民の1日ってどんなの?「何もしない毎日が苦痛」ロヒンギャに密着
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ミャンマーのイスラム教徒ロヒンギャがバングラデシュに難民となって逃げてから、8月25日で1年がたちました。今も約70万人がバングラデシュの難民キャンプで暮らしています。一体彼らはどんな生活をしているんだろう。難民の1家族に頼んで、その1日を見せてもらいました。朝ごはんのメニュー、配給品を買い集める「業者」の存在。そこには日本では想像もつかない過酷な環境と、日本人と変わらない人々の素顔がありました。(朝日新聞ヤンゴン支局長兼アジア総局員・染田屋竜太)
コックスバザールはバングラデシュ南東部にあり、海岸の観光地として知られています。今は、難民を支援する国際機関の職員らが多く滞在し、にぎやかな町です。その中心部から車で約1時間半、「バルカリキャンプ」というところに、今回取材をお願いしたラシッド・ウラーさん(28)一家の住居があります。
記者もこれまで3回、キャンプを訪れていましたが、たくさんの難民に話をききたいと、決まった人を長時間取材したことはありませんでした。
ウラーさんはキャンプの一地区で130家族を取り仕切るまとめ役。「難民の生活を日本の読者に伝えたい」と話すと、オーケーしてくれました。ただ、「あまり他の難民を刺激するような取材はしないでほしい」と釘を刺されました。
住居といっても、竹やビニールシートでつくられた簡素なもの。この地域に降る大雨での被害を考えれば、れんがやコンクリートの家の方が安全なのですが、彼らはあくまでも「難民」。ミャンマーに帰ることが前提なので、しっかりした家を建てることにバングラデシュ政府は同意していません。
ウラーさん一家がキャンプに来たのは昨年9月10日。取材したときにはすでに1年たち、ビニールの一部は敗れ始め、「雨が入り込んでくることもある」とのこと。
ウラーさんはミャンマー西部ラカイン州のマウンドー出身で、小学校のミャンマー語教師でした。しかし、昨年8月25日、ロヒンギャ武装組織の襲撃事件に対抗した政府治安部隊の掃討作戦が始まり、村が焼かれてしまったといいます。
昨年9月初め、妻のセリマさん(23)と1歳3カ月の長女ロハネスちゃん、母親のナジュマさん(45)の4人でミャンマーを逃げ出しました。当時は雨期。雨でずぶ濡れになりながら森の中を抜け、国境の川に到着。舟に乗るため、持っていた1万チャット(約720円)を払い、国境を越えました。
国際機関から支給された竹やビニールシートで自分たちの住居をつくり、同じ村から来た親類13人と一緒に住んでいます。
午前7時、ウラーさんが1人で朝食を食べていました。「魚カレーだよ」と教えてくれます。電灯もない部屋。テントシートの隙間から差し込むわずかな光を頼りに食べ物を口に運びます。「こうやって食べ物の心配をしなくていいのは感謝しなければいけない」とウラーさん。
キャンプでは、国連世界食糧計画(WFP)などが1家族に決まった量、食べ物を配給しています。ウラーさん1家は4人で月に米27キロ、油3キロ、豆9キロを受け取っているといいます。「ミャンマーでは外出や移動に制限があって、食べ物に困ったこともあった。食料の心配しなくていいのはありがたい」
「ただ」と、ウラーさんは表情を曇らせます。「ぜいたくを言ってはいけないけれど、米と豆だけの食事に窮屈に感じることもあります」といいます。
午前8時過ぎ、ウラーさんの住居に男性が訪ねてきました。簡単に言葉を交わし、ウラーさんはWFPの袋に入った米と豆を渡し、お金を受け取ります。額は700バングラデシュ・タカ(約930円)。
「週に2回くらい、こうやって配給されたものの一部を売っているんです」とウラーさんは教えてくれました。訪れた男性は、キャンプ内の「業者」。配給品を買い集め、別の場所で売っているというのです。
「このわずかなお金で、魚や肉、子どものお菓子を買います」。確かに、キャンプ内には、野菜や魚、肉、菓子や服まで売っている商店が並んでいます。ウラーさんの今日の朝食も魚カレー。「あれは今月、キャンプの店で買ったもの。家族で少しずつ食べている」と語りました。
国連国際食糧計画(WFP)によると、キャンプでは難民の95%以上に食料が渡っているといいます。しかし、平均で、野菜を口にできるのは2日に1回、肉や魚は3日に1回。フルーツは3週間に1回です。
午前8時半、ウラーさんは家を出ます。「このキャンプを仕切っているバングラデシュ軍との会議がある」というのです。キャンプは基本的に軍や警察が管理しています。治安維持や問題が起こったときの対応をするためです。
徒歩で約20分。丘を上がったところに、同じく竹とシートでつくった「会議室」がありました。「午前9時からです」ということで待ちましたが、一向に人が集まりません。時間を過ぎ、心配になり、ウラーさんは周りの人に尋ねます。
「中止になったみたいです」。苦笑いをしながらウラーさんが戻ってきました。「会議の情報や配給の情報など、難民同士でやりとりしているから、こういうことがよくある」といいます。「これから何をしよう」とウラーさん。こうやって予定が突然なくなり、何もすることがなくなる日もよくあると言います。
元々、ミャンマーでは小学校でミャンマー語を教える教師だったウラーさん。「子どもたちを教えることはやりがいがあった。することがない日々を過ごすと、自分の人生を生きている気がしません」とため息をつきます。
「うちの甥っ子が通っている学校を見にいってみたら?」とウラーさんが提案してくれました。キャンプ内にも、NGOが運営する教育施設があります。早速訪ねてみました。
中では子どもたちが地べたに座り、教師に合わせてミャンマー語の発音練習していました。ウラーさんの甥のサマ君(14)も真剣な顔。ここでは10~14歳の約30人が平日に3時間ほど、ミャンマー語、英語、簡単な算数を学んでいるといいます。
国連児童基金(ユニセフ)によると、キャンプ内には867の教育施設があり、約9万2千人の子どもたちが通っているといいます。6~14歳の子どもは6割が施設に通っている一方、15~18歳は1割程度。女子に至っては5%くらいしか通えていません。ユニセフの担当者は、「家事の手伝いや小さい子の世話などで家族が子どもを家に置いておきたがる。教育を勧めても、なかなか広がりません」と話します。
午前11時ごろ、ウラーさんの家に向かって歩いている時でした。道の端で人が固まってなにやら話しています。近づくと、お金をやりとりしていました。どうやら、国際機関からの配給品を道端で売り買いしているようです。
「あまり難民を刺激しないで」というウラーさんの言葉を思い出し、通訳を通して何をしているかだけきいてみました。すると、ある男性が「みんな欲しいものを買うためにお金が必要だ。配給の一部を売ってお金をつくっている」とだけ説明しました。
WFPの調査では、難民の79%が、生活の不安として「現金がないこと」を挙げています。着の身着のままで逃れてきた人たちは、配給に頼り、買いたいものを変えない生活に、息苦しさを覚えているというのです。
ウラーさんも、「我々を住ませてくれているバングラデシュ政府、国際機関には本当に感謝している。でも、私だって人間らしい生活をしたい。高望みでしょうか」とため息をついていました。
ウラーさんは昼ご飯も1人。「家族でごはんを食べないのですか」ときくと、「私は会議などの予定があるから、なかなか他の家族と時間が合わない。夕食が唯一、みんなで囲む食事です」と説明してくれました。
昼食を終えるとウラーさんは難民のまとめ役が集まる会議へ。家では洗濯や夕食の用意など家事が始まりました。ウラーさんの妻、セリマさんに話をきこうとすると、「あまり慣れていないので……」と奥に下がってしまいました。
キャンプで気づくのは、外に出ているのがほとんど男性だということです。イスラム教ではよくあることですが、女性は中にいてあまり外に姿をさらさない。セリマさんの代わりにウラーさんの母親のナジュマさんが少しだけ応じてくれました。「ミャンマーではひどい目に遭いました。ミャンマー軍と仏教徒が家を焼いたり、人を殺したりしたのです」。ただ、細かい話はしたくない、とのことでした。
キャンプで取材をしていると、ミャンマー国軍の悪行は山のように出てきます。この問題が起きた当初、欧米メディアなどは盛んにそれを報じていました。ただ、記者として注意しなければならない点もあります。
昨年11月に難民を取材したとき、その女性ははじめ、「手榴弾で家を燃やされた」と話しました。しかし、「どんな風に火をつけたのですか」ときくと、「もしかしたら、たいまつだったかもしれない」と言います。「やったのはどんな人たちだったのですか」と尋ねると、「いや、私自身は見ていない。親類からきいた」。
難民が酷い体験をしたのは間違いありません。ただ、時間がたてば記憶は薄れるし、人から何度も同じ話をきかされると、自分の体験のように思えてしまうこともあるかもしれません。難民の人たちに同じ質問を繰り返すのは非常に心が痛いです。ただ、メディアとしてはなにが「真実か」を、できるかぎりの方法で見つける必要があります。
午後4時、会議から帰ってきたウラーさんが、家の近くの掘っ立て小屋に向かいます。「この地域の難民の会議があるんです」。ほぼ毎日、夕方に、困っていることや希望をきく会議を開いているといいます。
ほぼ時間きっかりに、十数人が集まって会議が始まりました。「今日は日本から記者が取材に来ているけれど、遠慮しないで意見を言ってほしい」と話すと、何人かが話始めました。
「仕事はもらえないのか。これ以上何もしない生活を送るのはつらい」。ハミッド・フセインさん(45)です。キャンプでは、国際移住機関(IOM)や国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)などが、道路工事や建物の建設などで難民に仕事を任せています。
ただ、これらの機関によると、基本的には「日雇い」。長い期間雇うことはバングラデシュ政府が許可しないからです。バングラデシュ政府からしてみれば彼らは、一時的にいる「難民」。雇用が生まれれば定住してしまうという不安もあるようです。
1日働いて300タカ(約400円)ほどの賃金を受け取り、また仕事を探す。それだけでも苦労が分かりますが、数十万人いる中で仕事をできるのは本当にごく一部。ほとんどの人はわずかな賃金の仕事すらできない状態です。
フセインさんは、「何もしない毎日が続くのはとても苦痛だ」と顔をゆがめました。会議では、子どもたちの教育への心配、ミャンマーへの帰還の心配、そんな意見が出て、約30分で終わりました。
午後5時前、ウラーさんが長女のロハネスちゃんと連れて外に出ました。「風邪気味なので、薬屋にいきます」。確か、キャンプ内にも医療施設があったはず。「ここからはキャンプの病院が遠いから、ちょっと歩いてキャンプの外で薬を買うんです」と説明してくれました。
国連関係機関の調査では、キャンプ内には100以上の医療機関があり、「1万人に1施設必要」という基準は満たしているといいます。しかし、キャンプ内で医療活動をする日本赤十字社によると、医療施設もまんべんなく置かれているわけではなく、メインの道に集まりがち。アクセスが難しい難民の人たちもいるということです。
徒歩で約15分。キャンプから出てすぐの薬局で、ウラーさんはロハネスちゃんにビタミン注射をするとのこと。まだ注射の怖さがわかっていないロハネスちゃん。針が刺さると大声で鳴き始めました。見ているこちらも身がすくみます。900タカでビタミン剤を買い、帰宅しました。
難民キャンプを管理するバングラデシュ軍は、日没以降の外国人のキャンプ内滞在を認めていません。本当は、家族みんなで囲む夕食を見たかったのですが、食事は午後8時ということで、あきらめました。
「故郷に帰りたいですか」とウラーさんに尋ねると、「もちろんです」との答えが返ってきました。「教師をしていた頃が懐かしいです。でも、今は帰れません」
難民帰還について、ミャンマー政府とバングラデシュ政府は昨年11月に合意し、今年1月から始める予定でした。しかし、いまだに帰還の動きはありません。ミャンマー側は「バングラデシュ政府が約束通りに進めていない」と批判します。
一方、バングラデシュ政府は、「帰還した難民の安全や安心が保証されない限り、返せない」と言い返します。
ロヒンギャの多くはミャンマーで国籍を与えられませんでした。「バングラデシュの移民だからだ」という理由です。そのために、高等教育を受けられなかったり、移動の自由が制限されたりしました。「国籍のない不法移民だ」という意識を持つミャンマー国民も少なくありません。
「国籍問題も解決しないまま帰還したら、また難民問題が起こる」とバングラデシュ政府の役人は話しました。ミャンマー政府はいまだに帰還後のロヒンギャの国籍をどうするか、明らかにしていません。
取材を終え、帰り際、お礼をいうと、ウラーさんは「日本が難民を支援してくれているときいた。とても感謝している」と話しました。日本政府はバングラデシュ・ミャンマー両政府にロヒンギャ問題のための財政支援を約束しています。
「この子が大きくなること、一家全員で安心して暮らせるようになっていることを祈っています」とウラーさん。キャンプを離れる最後まで見送ってくれました。
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