連載
難民キャンプで、片っぱしから話を聞いてみた ロヒンギャの肉声
難民は、日本だと「遠い国の話」に思えてしまいます。ミャンマーから逃げて難民になった少数派イスラム教徒ロヒンギャは、バングラデシュの難民キャンプに流れ込みました。その数、1年間で約70万人。「かわいそうな人」というイメージで報道されがちな難民たちですが、それぞれの人生を生きています。「魚や肉が食べたくなるときだってある」「とにかく勉強がしたい」「ここでは知っている人が誰もいない」。キャンプで出会った12人の「肉声」をお伝えします。(朝日新聞ヤンゴン支局長兼アジア総局員・染田屋竜太) ※文中の敬称は省略しています
ミャンマー西部ラカイン州のマウンドーというところで漁業のビジネスをしていた。漁師を雇い、舟をいくつも持っていたんだ。1カ月に80万ミャンマー・チャット(約5万7千円)の収入があった。妻が2人、11人家族で幸せに暮らしていた。だが、国軍の掃討作戦が始まり、家も他の建物も全て燃やされた。私が生き残ったのは奇跡だよ。今はキャンプで「マジ」という地域のまとめ役をしている。水、地域のバングラデシュ人とのいざこざなど悩みは尽きない。私たちロヒンギャはミャンマーで何度も脅かされて生きてきた。それでもミャンマーでの暮らしは幸せだった<涙で言葉を詰まらせる>。
ラカイン州のマウンドーで薬局を営んでいました。月に30万チャットは稼いでいたかな。村を燃やされ、親類が暴行され、生き抜くためだけにこっちに逃げてきた。今は、キャンプ内の教育施設で英語の教師をしています。月の収入は1万3千バングラデシュ・タカ(約1万7千円)。早くミャンマーには帰りたい。でも、国籍をもらえなければダメだ。国籍がないから、これまで酷い差別を受けてきたからだ。
6人家族でキャンプに住んでいる。バングラデシュ政府には感謝しているし、食べ物をくれるところ(国際機関)にもありがとうと言いたい。でも、食べ物は足りていないよ。魚や肉が食べたくなるときだって多い。だから仕事がほしい。今は日雇いで200~300タカ(約260~400円)を稼げるけど、毎日仕事があるわけじゃない。これからどうなるんだろう。心配で仕方ない。
ミャンマーでは2階建ての家に住んでいたんだ。僕は勉強が好き。父は教師だった。でも、ロヒンギャだとミャンマーでは大学に行けないときいた。日本にはとても感謝しているよ。僕たちにお金で支援してくれているときいた。バングラデシュに逃げてきて、学ぶところがない。それが一番悲しい。キャンプでの生活には段々耐えられなくなってきている。とにかく勉強がしたい。いつになったら勉強できる環境になるんだろう。
家族8人で国境を越えてきました。7日間歩いて、ボートに乗るのに6000チャット払いました。ミャンマーではいつも警察にびくびくしていた。ここではそういう心配をしなくていいので安心はできる。ミャンマーでは午後6時から翌朝6時までは外に出てはいけなかった(外出禁止令)。時には24時間外出するなと言われることもあった。キャンプではお金がなくて何も買えないから、ミャンマーから持ってきた服や装飾品を売りました。早く帰りたいけど、今戻ったらまた不安な生活をしなければならない。誰が私たちの村を焼いたのか、悪い人間はしっかり裁かれてほしい。
ミャンマーでは、イスラム教の神学校で勉強していた。こっちでもコックスバザールの神学校に通っています。今年6月、妻のアティファ(17)と結婚しました。彼女はミャンマーのマドラサで教えてくれていた先生の娘なんだ。この子は甥っ子で僕の子どもではないよ(笑)。今はミャンマーから持ってきた少しのお金と、宝石などを売って生活している。夢はミャンマーに戻ってマドラサの教師になること。いつになるかわからないけど、かなえたいと思っています。
妊娠5カ月だった去年の8月、村でレイプされました。周りは国軍の兵士の仕業だというけど、私にははっきりわかりません。夫(35)も殺されました。同じ村の100人以上がみんな、亡くなってしまったんです。バングラデシュに逃げるとき、食べ物がなく、飢えて力尽きそうになりました。なんとかキャンプに来て、4カ月後、長男のソヘルが生まれました。大きなことは望みません。ちゃんとミャンマー国民として認めてくれて、住む場所があれば今すぐにでもミャンマーに帰りたい。
ミャンマーでは、政府の小学校で英語、算数、ミャンマー語を教えていました。月の収入は30万チャット。家族10人で逃げてきました。今は国際移住機関(IOM)で雇ってもらっています。面接をして英語が話せるということで採用になりました。でも、短期間だけしか働けず、いつまでこの仕事を続けられるかはわかりません。キャンプでの生活は……しんどいです。お金もない、でも他に選択肢がないから仕方ない。ミャンマーよりは移動の自由があります。でも、結局キャンプの外へは出られない。いつかもう一度、教師として働いてみたい。
ミャンマーでは4年生でした。8月の事件の後、学校からの帰りに知らない人にさらわれました。学校の建物に連れていかれ、本当に怖かった。同じ村の何人かが棒などを持って助けに来てくれた。私を連れ去ったのは、軍の人だということでした。そのすぐ後、バングラデシュに逃げることにしました。ちゃんと学校に行って勉強したいです。
ミャンマーでは16エーカー(約6500平方メートル)の土地で農業をしていた。牛も飼っていたんだ。毎日3000チャット(約215円)くらいの収入はあったかな。木造の家に住んでいてね、10人家族で平和に暮らしていたよ。キャンプでは仕事もない、お金もない、食事を作る燃料も足りない。テントのような小さな住居は窮屈で、悲しくなる。いつもいつも、ミャンマーでの生活を思い出し、涙が出る。
ミャンマー・ラカイン州のマウンドーから、8月27日に逃げ出した。逃げる前に銃撃され、その傷は今でも残っています。当時、妊娠9カ月だった。5日間歩き続けた。足は腫れ、歩くのがつらくて、本当に生きていけるのかと思った。キャンプについたが、手当を受けることができず、テントの中で休んで直した。ここでは知っている人が誰もいない。私はミャンマーでまったく教育を受けられなかった。自分の子どもたちにはちゃんと教育を受け、できれば医者になってほしい。
ミャンマーでは雑貨屋をしていました。夜は外出できなかったし、警察官からひどい尋問や差別を受けました。至るところに警察の検問があり、買い物や人を訪ねるだけでも止められ、自由に行き来できなかった。治安部隊の掃討作戦が始まり、バングラデシュに逃げてきたが、大雨の中を5日間歩き、3時間ボートに揺られてやっとたどり着いた。とにかく、生きる場所を与えてくれるバングラデシュ政府には感謝している。帰還するなら、ミャンマーの国籍を与えてほしい。
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