連載
「帰ったところで、国籍がない」ロヒンギャ難民、それぞれの人生
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2017年8月、ミャンマー政府が、少数派イスラム教徒ロヒンギャの武装組織への掃討作戦を開始してから、すでに70万人のロヒンギャが国境を越え、難民としてバングラデシュに逃れた。「迫害された難民」とひとくくりにされるロヒンギャだが、それぞれの人生を生きている。キャンプで、難民の声に耳を傾けた。(朝日新聞ヤンゴン支局長兼アジア総局員・染田屋竜太) ※文中の敬称は略しました
ミャンマーのラカイン州にいたときは、いくつも漁船を持ち、漁業のビジネスをしていた。家だって何軒かあったんだ。妻は2人、家族は全部で11人いた。月の収入は80万ミャンマー・チャット(約5万7千円)。ぜいたくな暮らしではなかったけれど、不自由はしなかった。
去年の8月、突然、村に軍の兵士たちがやってきた。ロヒンギャの武装勢力が警察の施設を襲ったということだ。その犯人を捜しているという。私は何の関係もないのに、調べられた。あちこちで銃の音がしていた。軍と武装勢力が戦っているんだろうという話だった。村に火の手が上がり、私たちは逃げた。私の家も、漁の小屋も、全て炭になってしまった。
それまでもよく、警察は村にやってきていた。いつも、午後6時から翌朝6時までは外出禁止。時には日中も出ちゃいけないと言われることがあった。移動をしようにも、警察の検問で、「ベンガリ(ミャンマー人のロヒンギャの呼び方)はダメだ」と言われ、追い返された。金を払えば通してくれるというが、3万チャットとか4万チャットを要求される。そんなの法律では決まっていないことだ。
雨の中、森を抜け、何日かかけて国境の川までたどり着いた。6千チャット払い、舟に乗ってバングラデシュに渡った。年老いた私が逃げてこられたのは奇跡だと思っている。
今、難民キャンプで、「マジ」と言われる、100家族くらいのまとめ役をしている。みんな、日々の生活に不安を持っている。帰ったところで、私たちには国籍がない。これまでみたいに差別されたり、不利益を受けたりするだけだ。だから、ミャンマー政府がちゃんと国籍の問題を解決しない限りは、戻れない。
これまでもロヒンギャは何度も脅かされて生きてきた。でも、ラカイン州で過ごしたことを思い出すと、涙が出る。帰りたい。全部燃えて何もなくなってしまったが、また、あの頃のように暮らしたい。
2017年の8月27日、村が焼かれ、夫のモシャヒ・ドゥラ(25)と一緒に逃げてきました。その時、誰かに銃で撃たれたんです。その傷はまだ、胸に残っています。
当時、おなかには6カ月になる、息子のアヤットがいました。びしょぬれになって必死で逃げました。足が腫れ、もう歩けないと思ったけれど、いつ襲われるかも分からない。休みながら、3人の子どもたちと一緒に歩き続けた。12日間歩き続けた。村を出るときに少しの食べ物は持っていたが、それもなくなり、何も食べない日もありました。もうだめか、と思った時も何度もありました。
小さな舟で家族みんなで川を渡り、キャンプに逃げ込みました。国際移住機関(IOM)の病院でアヤットを出産。今、生後7カ月です。
キャンプでは、お金がないことにとても困っています。ミャンマーでは雑貨店を営んでいた夫にも、仕事はありません。何もかも、国際機関からもらうものに頼っている。家族全員がそういう状態なのが、とても不安です。
私はミャンマーで教育を受けることができませんでした。子どもたちには絶対に良い教育を受けてもらいたい。だから、キャンプでも学校に行かせています。いつまで、この生活が続くんでしょう。ミャンマーに帰る日は来るのでしょうか。ミャンマーの村は全部焼けてしまった。どこに住めばいいのでしょうか。子どもたちは学校に行けるのでしょうか。
今でも、ミャンマーから逃げてきているロヒンギャがいるとききます。みんな故郷に帰りたいと思っています。でも、ちゃんと住む場所や仕事がなければ、帰って、もっとつらくなるだけです。私は、アウンサンスーチーさんという人がどういう人か知りません。でも、私たちのことを考えてくれるなら、絶対に助けてくれると思っています。
私はミャンマーのラカイン州にあるシットウェー大学を出たんだ。両親とも政府に雇われた公立学校の教師だったから、私も教師になりたいと一生懸命勉強しました。11歳の時、父親がヤンゴンの学校に赴任することになった。「おまえも来るか?」といわれたけれど、私はそのまま勉強してシットウェー大学に行きたかったから、親戚の家に残ることにした。弟は両親についていった。今思えば、ここが人生の分かれ道だったと思う。
当時は、比較的自由に移動ができたんです。入国管理省の役人が求めてきたお金を渡せばヤンゴンにだって行けた。だから、大学を出てから両親とまた一緒に暮らそうと思っていたんです。
でも、1990年代後半から、ロヒンギャに対していろいろなことが厳しくなった。移動も制限されたし、仕事でも差別されました。私が大学を出た20年ほど前にはロヒンギャが教師になるなんて誰も認めてくれませんでした。私は心理学と地理学を専攻したんですが、「ロヒンギャにそんなものは必要ない」と言われました。結局、親戚の米農家を手伝うことにしました。英語も勉強して話せるようになったけれど、まったく意味はなかったです。
当時、軍事政権はロヒンギャに特別な身分証を渡してきました。国籍を持たない我々用に、他のミャンマー人と区別したものです。その後、一度はそのカードがあれば選挙にも参加できた。でも、すぐにカードは取り上げられ、もう戻ってきませんでした。
昨年9月に家族とキャンプに逃げてきて、ここで暮らしています。弟は、首都ネピドーで母親と一緒に暮らし、建築関係の仕事をしているらしい。あのとき、もし両親についていっていたら、今のような人生ではなかった。後悔しても仕方ないけれど、将来を思うと、すごく重い気持ちになります。