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メーテルのモデルは八千草薫さん?80歳の松本零士さんが明かした秘話

メーテルのロボットと対面する松本さん
メーテルのロボットと対面する松本さん 出典: 朝日新聞

目次

 メーテルのモデルは八千草薫だった? 「銀河鉄道999」などで知られる漫画家の松本零士さんは、今年80歳になりましたが、「999」の新作を発表するなど、創作への意欲は衰えることを知りません。「女を描くのがへたくそ」と言われて練習した秘話。東大に忍び込んだ時に出会った「伝説の博士」。そして「まだ描きたくはない」という最後の作品について聞きました。

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星野鉄郎に投影された自身の旅立ち

――『999』の出発のシーンには、松本先生の上京の場面がイメージされていると聞きました。

「毎日小学生新聞に高校1年のときから連載させてもらって、それで学費を稼ぎながら高校を卒業しました。高校を卒業したら毎日新聞に来い、と言われていたんですけど、部長以下みんな大阪に栄転しちゃった。後に来た方には何の申し送りもなく、私だけ置き去り」

「雑誌に連載をしてなんとかなったんですが、編集部から『東京に一刻も早く雄姿を現したまえ』と手紙が来たんです。行きたいんですが、お金がありません。『原稿料の前借りはできませんか』と聞いたら、『来れば渡す』と。しょうがないので何もかも質屋に入れて、画材だけを持って、24時間かけて上京しました」

「小倉を夕方5時半に出て、関門海峡(のトンネル)に入るでしょう? 真っ暗なんですよ。暗黒を抜けて下関側に出ると、まだ夕方で明るい時間だから、別の宇宙に来たみたいな気になる。『ついに俺も旅立った』と」

「『999』で、鉄郎が宇宙への旅に出るときに『死んでも帰らん』というのと同じなんですよ。自分自身を描いているみたいなもんです。人生にはそのとき、あの列車に乗らなかったら、人生が変わっていたかもしれない、そういう瞬間が誰にもあるはずですよね。生涯を支える、旅立ちの瞬間が」

自作を手にインタビューに応える松本零士さん
自作を手にインタビューに応える松本零士さん

手塚治虫さんとの不思議な縁

――故郷とは、どんなものでしょうか。

「私は久留米生まれの小倉育ち。『九州男児たるもの』という言葉が染みついているんですよ。『男なら負けてはいかん。今日泣いても明日は笑え』『今日流す涙は恥ではない、諦めたら恥である』とね」

<松本さんは1938年1月25日、福岡県久留米市で生まれた。陸軍のパイロットだった父親が大刀洗飛行場に所属していたときだったという>

「私の親父は独学で陸軍士官学校に入り、陸軍航空士官学校も出て、職業軍人になりました。その後、兵庫県の明石で、新型機のテストをやっていた。昭和19(1944)年、父が南方戦線、フィリピンに行くことになり、母親の実家がある大洲(愛媛県)に行きましたが、明石のときには、もう漫画を描いていましたね」

「5歳のとき、『くもとちゅうりっぷ』という日本のミュージカルアニメーションを1週間だけ明石でやったんですよ。手塚さんが初対面でいきなり、『あんたどうして、くもとちゅうりっぷみたいな漫画を描くんだ』と聞かれたんです」

「『明石で見ました』と言ったら、手塚さんは『えーっ』とでんぐり返って、『俺もそこにいた』と言われたんです。当時15歳の手塚さんが宝塚から来て、同じ時間に5歳の私がいるところで一緒に見ていた。不思議な縁です」

手塚治虫さん=1984年12月25日
手塚治虫さん=1984年12月25日 出典: 朝日新聞

宇宙へのあこがれ

「九州男児ですが、先祖の地は大洲なんですよ。先日の大雨では、愛媛県だけでも何十人も死んでいる。自分のふるさとが水浸しになってしまった。つらいですよ」

<松本さんの父親も愛媛県の出身。明石から大洲の母の実家に移り、その後、父親の実家があった地域も含め、松本さんは1948年まで愛媛県で過ごした>

「終戦の日は肱川と矢落川が合流しているあたりで泳いでいてね。『戦争が終わったぞー』とメガホンで叫んでいる声が聞こえて、あわてて家に帰ったら家中雨戸が締め切ってあってね」

「こじ開けて入ったら、うちのばあさんが先祖代々の日本刀や長刀を出して、打ち粉を打って磨いているんですよ。『お前も侍の子じゃけん、覚悟せい』って。敵が来たらチャンバラやるのかなあと思ったけど、あとでよく考えたら、『差し違えて死ね』という意味だったんですよね。それが小学2年のときのことです」

「父親は、8月15日にはバンコクの向こうで空中戦をやっていたそうです。英軍に武器を引き渡し、2年半抑留されてから帰って来た。そのあと、父の実家(旧大平村<現・伊予市>)近くの山の中腹で1、2年暮らしました」

「山道を歩いて分教場へ通いましたが、これが雲の上を歩いているんですよ。不思議な光景でした。四国の空はきれいで、夜になって田んぼで寝そべると、星座が全部見えました。宇宙へのあこがれはそのころから発生していましたね」

大洲市に作られたモニュメント。御影石で作った地球に、メーテルや999、四国が描かれている=2017年11月
大洲市に作られたモニュメント。御影石で作った地球に、メーテルや999、四国が描かれている=2017年11月 出典: 朝日新聞社

原点の小倉へ。号令は「ハーロック」

「北九州は米軍がいて、『るつぼ』ですよね。松本清張さんの『黒地の絵』(注:朝鮮戦争時にあった米軍黒人兵の集団脱走事件をモデルにした小説)の舞台になったところです。あの人、朝日新聞の宣伝部(正式には広告部)かなんかいたんですよね」

「長屋の隣に住んでいたオヤジが新聞社で勤めているからついていったら、『漫画を描いているんだって。そんならこれをやろう』とサザエさんのジンク(亜鉛)版をくれたのが、松本清張さんだったようです」

<公職追放を受けていた父親は、路上で八百屋をしながら生計を立てた。当時住んでいた「ぼろ長屋」は鹿児島線の線路わきにあり、SLが行き交っていた>

「SLが子どものころから、『あれに乗って東京に行く』という憧れだったんですよ。『ハーロック、ハーロック』と号令をかけながら歩いていた。(ハーロックという言葉に)意味なんてないですよ。私にとっての号令だったんです。人に聞かれると嫌なんで、列車がゴーッときたときに声を出すんです」

「親父は部下の大半を失って帰って来ている。あるとき、女の人が訪ねてきて、『あなたは生きて帰ってきて、なぜ、せがれを連れて帰ってきてくれなかったんですか』と責められる訳ですよ。親父が深々と頭を下げて、『すまん』と謝るのを見て、『ああ、つらいんだな』と」

松本零士さんが少年時代を過ごした小倉市街
松本零士さんが少年時代を過ごした小倉市街 出典: 朝日新聞社

アメリカンコミックと「大宇宙の旅」

――漫画を志したきっかけは?

「明石にいるころに『くもとちゅうりっぷ』だけではなく、『フクチャンの潜水艦』にも出会っていますから、5歳のころから漫画は描き始めていました。父の趣味で、手回しですけど映写機を家に置いてくれていたんです」

「それでフィルムがどんなもの分かったし、ミッキーマウスもポパイも知っていたんですよ。本も、姉が『フクチャン』とか『のらくろ』とか買ってきて見ていたもんですから」

「小倉では米軍が読んで捨てていく10セントコミック、ディズニー、スーパーマン、スパイダーマン、バットマンなんかを拾って売っているおばちゃんがいたんですよ。占領軍のものは売買してはならぬということになっていて、タイトルがちぎってあるのが5円で売っていた」

「学級文庫にも小説や漫画をはじめ、本をいっぱい入れてくれていました。そこに荒木俊馬博士(注:天文学者。京都産業大の創設者)が書いた『大宇宙の旅』があったんです。『大宇宙の旅』では、フォトンという妖精の女性が、少年を連れて宇宙を旅するんです。あとで気づいたんですが、そこから影響をうけてメーテルと鉄郎の旅を書いている。ありとあらゆることが学習になっていたんですよね」

復刻版 大宇宙の旅(恒星社厚生閣)

「女を描くのがへたくそ」と言われて…

「高校1年のときに『蜜蜂の冒険』が『漫画少年』に掲載されてデビューしました。本名は松本晟。晟の字を誰も読めないので、ひらがなで『あきら』としていたけど、迫力がないので(ペンネームを)『零士』に変えたんです。本に載ったとき、『お前、女がへたくそだ』と言われて、『これはいかん』と」

「まず中学のときに八千草薫さんの顔を自分好みに修正して描いたのがありました。これが後のメーテルなんかの顔にそっくりなんですよ。映画やディズニーからもいろんな刺激を受けました。『わが青春のマリアンヌ』のマリアンヌ・ホルトは、この顔がまた自分が憧れていた顔にそっくりでね」

「あと、四国の母親の実家の隣の寺から出てきた写真、シーボルトの娘のおいねさんの娘だったらしいんですが、これがまた八千草さんを修正して描いた絵に似ているんですよ。私の先祖も見ていたでしょうから、遺伝子というのはびっくりしますね」

荒木俊馬の出身地・熊本で企画展が開かれたときは、松本零士さんの作品がずらりと並び、記念講演もした=2011年8月
荒木俊馬の出身地・熊本で企画展が開かれたときは、松本零士さんの作品がずらりと並び、記念講演もした=2011年8月 出典: 朝日新聞社

東京へ。下宿先の本郷三丁目での出会い

「高校2年の修学旅行で東京へ行ったんです。そのとき、皇居の近くの木をなぜて、『(東京に)俺は必ず来るぞ』と誓ったんです。上京して東京駅に着いたとき、まずそこまで歩いて行って、『俺は来たぞ』と言ってから出版社に行き、少女漫画の連載を始めました」

「当時、少年雑誌は重鎮の漫画家が支配していて、入り口がなかったんですよ。だから私も石ノ森(章太郎)氏も赤塚(不二夫)氏も藤子(不二雄)氏も、全部少女雑誌に出ている。少女雑誌は新人を受け入れてくれたんで」

<下宿先は現在の東京メトロ丸ノ内線・本郷三丁目駅の裏にあった山越館。近くには当時、漫画家が締め切り前に「缶詰め」にされる太陽館という旅館や、プロ野球読売巨人軍の定宿、東京大学などがあった>

「私の下宿の部屋から巨人軍が食べているお膳が見えるわけですよ。『うわあ、いっぱい並んでるなあ』『ああ、あれ喰いたいなあ』なんて、そんなことを思いながら、そこで下宿ぐらしを6年ぐらいやった」

「太陽館には、手塚治虫さんとか横山光輝氏とかみんな来ていて、呼ばれていくと、メシを食わせてくれる。漫画家全部と知り合いになれました」

「東大に糸川教授(=故・糸川英夫、日本のロケット開発の先駆者)の研究室があって、中に入って勝手に見ていたら、最初は『お前何している。誰の許可とって入ってきた』『ばかやろう、怒られるぞ』と注意されたけど、友達になれました」

「あるとき、糸川先生に『大学は貧乏で行けませんでした』ということを言ったら、背中をたたかれて、『だから今のあんたがあるんじゃないか』と言われましたね。励まされました。稼ぎながら家に仕送りしていたら、弟は大学に受かってくれた。博士号をとってから三菱重工に就職して、ロケット開発にもいろいろ関与した。自分がやりたかったもう一つの道は弟がやってくれました」

糸川英夫教授=1952年
糸川英夫教授=1952年 出典: 朝日新聞

アフリカでの体験が転機に

<上京したのは1956年のことだが、出世作とされる自伝的漫画「男おいどん」の連載開始は1971年。同年月日生まれで親しかった石ノ森章太郎氏らと比べると、人気作家に名を連ねるのは遅かった>

「少女漫画に女性の漫画家たちの作品が載りだしてくると、我々男の漫画家は手塚さんに至るまで全部駆逐された。編集部に行くと、喫茶店に行って『お前の連載は来月で打ち切りだ』と何度言われたか。ちょうど青年漫画が始まったり、少年誌が週刊化したり、先輩たちが年を取って隙間ができたりして、なんとかなったんです」

「テレビアニメの『宇宙戦艦ヤマト』も視聴率が悪くて、回数を短くして打ち切られてしまいました。漫画は切られなかったけど、ちょっと失業状態ですよね。それで『銀河鉄道999』にうつる前に、ライオンと決闘しようと思ってアフリカに行ったんです」

「ケニアからキリマンジャロを見て、アフリカの大地を見ながら、一種の悟りを開いた気分になったんです。『俺が生まれる前からこの大地はここにあった。俺が死んだ後もここにある。人気がなんだ、金がなんだ。そんなことは小さなことじゃないか』って」

「ぱーっと心の中が明るくなりました。日本に戻ってきたら、電柱にまで花が咲いているような気分でした。そこから自分がやりたいこと、やれるだけのことをやろうと誓いました」

「『宇宙海賊キャプテンハーロック』は『アルバトーレ』の名前でフランス語版が出ていたり、いろいろな国で出版されています。いまは世界中に門戸が開かれている。漫画には国境がなく、地球上全域が我々の仕事の現場になっています」

「描くときに歴史をよーく学んで、どの国の人を傷つけてもいけないというのを念頭に入れて描かないとやばいわけです。私は自分が占領下にいたでしょう。負けるということ、占領ということがどういうことか、よく理解していました」

「九州では、韓国系、朝鮮系、中国系と同級生にいるので、いろいろ感覚をきくと、『なるほどなあ』とよく分かります。子どもにも民族的なプライドはある。そういった自尊心は絶対に傷つけちゃいけません」

故郷の小倉にあるメーテルと鉄郎の銅像の間に座る松本零士さん=2018年5月
故郷の小倉にあるメーテルと鉄郎の銅像の間に座る松本零士さん=2018年5月 出典: 朝日新聞社

「この地球を、この目で見てから死にたい」

――今後、描いていきたいこと、やっていきたいことはなんですか?

「実は、『999』も『ハーロック』も『クイーン・エメラルダス』も、何もかも一つの物語なんですよ。これを全部まとめて描いて終わりにしたら、終わり。そしたら自分の生涯も終わるわけです」

「だからまだ描きたくはないんです。そういう映画も作りたいんですよね。まだ辞めるわけにはいかない。幸い、視力や体力に問題は起こっていないんで、丈夫な体で良かったと思っています」



「タイムマシンとかワープとか、ガキのころから興味があって、『高速で移動したら時間差はどうなるのか』とか、一生懸命考えていましたね」

「(今年描かれた最新作では)999がブラックホールトンネルに入るところまで描いています。そこをくぐり抜けたら、どういう世界にいくか。時空はどうなっているか、宇宙は一つなのか、限りあるのか、無限大なのか、時間差はどうなるのか…子どものときからの夢でね、そういうことを描きたいと思っていた」

「パイロットだった父親が家に帰ってきたときに、『太平洋の上を夜間飛行するとき、海に夜空が映って、どちらが上か下か分からない。宇宙を飛んでいるみたいだった』という話をしてくれたんですよ。想像すると憧れてしまって…。小学3年ですよ」

「そんなことを聞いていたもんですから、子どものころから宇宙と時間のことばっかり考えていたんです。今頃は自分でロケットを作って火星にいる予定だったんですよ。死ぬまでに、この地球をこの目で見てから死にたい。今でも『もう帰れなくなってもいい』と思うときがきたら、宇宙に行こうと思っています」


     ◇

福岡県久留米市生まれ。幼少期は愛媛県に疎開し、終戦後に小倉(現北九州市)に移り住んだ。80歳になった今年は、「999」の新作や舞台も公開。朝日新聞社のクラウドファンディング「A-port」では映像会社スカパーJSATが松本さんのドキュメンタリー番組を制作するための支援を募っている(https://a-port.asahi.com/projects/999forever)。

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