連載
#18 #withyouインタビュー
千原ジュニアさん「やりたいようにしたらいい」 引きこもり型は色々
学校は地獄。でも、きっと別の居場所がどこかにあるはず……。千原ジュニアさん(44)は少年時代、そんな悩みを抱えていました。中2のときから部屋に鍵をかけて引きこもり、深夜、テレビでザーッと流れる砂嵐の画面を見て過ごしていたそうです。まさか将来、人を笑顔にする「芸人」という生き方を選び、テレビに出るなんて想像もできなかったといいます。(朝日新聞生活文化部記者・杢田光)
「どうしてみんなと同じ道を歩けないんだろう」。小さい頃からジュニアさんは、そう思っていたそうです。たとえば幼稚園のとき絵を描いたら、先生から「太陽はむらさき色じゃない」と怒られました。独自の感性が、周りになかなか分かってもらえませんでした。
――進学校の私立中学校に入り、自由のない空気が耐えられず、ついに引きこもるようになりました。
一番戻りたくない時代ですかね。学校はなんか居心地が悪くて、居場所がないという感じでしたね。本読んだりテレビ見たりしながら、「この先どうしようかなぁ」みたいな感じでした。
(自宅の)部屋の壁に、人が見ても理解できないような絵を描いたりもしていました。「富士山」とか「鳥」とか分かるような絵ではなかった。自分でもあまりどんな絵だったか覚えていませんけど。
――当時は何が心の支えでしたか?
うーん、支えはなんでしょう? 「まだ見ぬ世界」が支えでしたね。「居場所がどっかにあるはずや」みたいな感じでした。
おばあちゃんにも、だいぶ支えられたところがありましたね。支えになっている言葉は色々ありますけど、「みんなと違っていいんだよ」というようなことを色んな角度から言うてくれてたような気がします。
――当時テレビで、登校拒否児について話す大人たちの言動をみて「ふざけんな」と感じたそうですね。
「大人が分かってやらないといけない」とか「子どもの目線に立って」とか。当事者からしたら、ちゃんちゃらおかしいと思いますよ。
――今は自分がテレビに出る側になりました。部屋でひとり悩んでいる子がいたら、どんな言葉をかけますか?
「やりたいようにしたら」って。やりたいようにしてたら、なんかあるよってくらいですかね。
僕は実際こんな風に引きこもってたけど、僕みたいな引きこもり方してたのは僕だけやし、ほんまにそれぞれ違いますからね。色んな「引きこもり型」というか原因が色々あるでしょうからね。一概には言えないですね。
――4歳年上の兄せいじさんの言葉がきっかけで、15歳のときに外に出れられるようになったそうですね。
せいじが先に吉本に入ってて、「相方がいいひんから、お前来い」って誘ってくれた。
――そして高校を中退して、急きょ笑いの世界に飛び込びました。それまで笑いとの接点はあったんですか?
テレビをつけて、やってたら見るくらいの感じで、好きでチャンネルを合わせたりはしなかったですね。
たとえば漫才ブームの頃なんかの漫才も、吉本に入った後、同期の人たちからビデオ借りて教えてもらったりしました。ダウンタウンさんの漫才とかも人にビデオ借りて見せてもらうくらいでしたから。見てたのは桂枝雀師匠の落語くらいです。
――せいじさんには小さい頃から鍛えられたそうですね。
小学4年生のとき、遠足に行って他校の子どもたちとケンカになったんです。その話を家に帰ってしたら、せいじが「めっちゃおもろいな、その話」と言ってくれて、そっから「今日こんなことあってん」としゃべるようになった。
日常的に、せいじが「オチあらへんがな」とか「その話、全然おもんない」とか「わかりにくいな」とか言ってくれて、そんなことが役立っているのかなと。その頃は2人でお笑いを目指してやってたわけでもなんでもないから、今思えばっていう感じですけど。
――この世界に入った15歳の頃と比べて、笑いへの向き合い方は変わりましたか?
当時は何も分かってないから、お笑いの勉強してるっていう感じ。今は、ネタも「今まで自分が作ってきたものに勝てるかどうか」みたいな作り方になってきた。
当時はおもしろいネタを作って(披露する)個人の作品発表会という感じだったけど、今はバラエティーとかテレビとか、ディレクターから(放送)作家からカメラマンまで色んな人と一緒に一つのものをつくる共同作業も多いので、向き合い方は大きく違いますね。
――来年で「千原兄弟」の結成から30周年。やっててよかったと思う瞬間は?
やっぱりね。これだけたくさん笑い声が聞けるっちゅうのは単純にうれしいというか、気持ちいいです。
――今後の夢は?
4月に落語会を1人でやったんですけど、落語をコンスタントにやっていきたいと思っています。
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