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DV・いじめ…「どん底」見た元商社マンが「学び直し」塾を作った理由
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安田さんは1983年、横浜市の生まれ。発達障害の特性で、花火の音や風船が割れる音が極度に苦手でした。また、集中し出すと周囲の音が聞こえなくなり、独り言をつぶやいているように周りからみられることもありました。
そのことがからかいの対象となり、いじめられることも多かったといいます。
小学校高学年の頃には、安田さんに日常的に暴力を振るっていた父親が家を出ていきました。そして残された家族の関係もうまくいかなくなります。
そんな家が嫌で、中学は全寮制の学校に入学しました。しかしそこでもいじめにあい、2年生で転校。祖父母との同居も同時に始まりました。
転校先の中学と進学先の地元の高校では「暴走族の下っ端のようなこと」をする毎日。勉強も苦手でした。ただ、そんな現状が嫌で「なにかをみつけたい」ともがき続けていたといいます。
安田さんが「人生が好転し始めた」と思うきっかけになったのは、2001年、9.11米同時多発テロ後のイラク戦争の様子をテレビでみたことでした。
なんで世界はこんなことになっているんだ。世界を変えたい、人生を変えたい…。
当時安田さんは高校3年生。2年間の浪人生活を経て大学に入学し、バングラデシュなどでボランティア活動をします。
卒業後は総合商社に入社します。順調なように見えましたが、ここでもつまずきます。
総合商社入社後、配属されたのは油田の投資に関する部署。「興味がなく全く集中できなかった」。
上司に「油田が紛争の原因になっていることをどう思いますか」と議論を持ちかけたり「空気が読めない発言をしてだんだんいづらくなった」。入社4カ月でうつ病と診断され、1年間自宅に引きこもっていました。
そろそろ社会復帰を考えようというとき、安田さんはまず、自分にできないことを考えていました。
会社員はできない、革靴は履けない…などと列挙するうちに「起業するしかないな」と思い至りました。
そこで、自身のこれまでの体験を軸足においた、「学び直し」をうたった塾である「キズキ共育塾」を創設することになったのです。
――総合商社は会社員として悪くない職業のはずです。起業をする際に迷いはありませんでしたか?
「総合商社の環境に合わせることができずにうつ病になりました。起業は、『自分が働くには自分にあった環境を作るしかない』と思い、ある意味で仕方なく起業しました」
「学び直しを支える塾を思い付いたのも、『自分に出来ることは勉強をして教えることぐらいしかない』と思ったからです。そんな僕でもなんとか生きていけるんだということを伝えたいです」
――ご自身の経験から、「消えたい」「しんどい」と思っている10代に伝えられることはありますか。
「『生きていればいいことがある』とは僕は言えません。でも、『あるかもしれない』ということは伝えたい」
――「あるかも」の意味は?
「僕は10代の頃、『自分がいま消えたら、葬式で少しは悲しんでくれる人がいても、数カ月したらみんな忘れていくんだろう』『自分が生きる意味はない』と考えていました」
「普通の家庭なら『親が悲しむ』とか考えるのかもしれませんが、ちゃんとした親がいない僕は、そうではありませんでした。そのことで、いまでもふと『苦しいな』と思うことがあります」
「でも、キズキ共育塾の卒業生から突然『キズキをつくってくれてありがとう』とメールが来たりする。そういうとき、自分を絶対的に承認してくれる親の存在はなかったけど、この世界には僕がいた意味はあるんだなと思うことができるようになりました。それが僕を楽にしてくれています」
「いま僕が死んだら悲しんでくれる人が少しはいるんじゃないかと思います。だから、もしいま『自分に存在価値がない』と思っている人がいるとしても、20年くらいしたら意外に存在価値があると自分でも思える人間になっているかもしれない。僕がそうです。なので、僕のような事例もあるということを知っておいてほしい」
そんな自身の半生をつづった「暗闇でも走る 発達障害・うつ・ひきこもりだった僕が不登校・中退者の進学塾をつくった理由」(講談社)が4月に発売され、6月には、大阪で開かれた出版記念イベントで、この本に込めた思いを語りました。
会場からは、「自尊心の回復が大きなテーマだと思います。なぜ幼少期をのりこえられたんでしょうか」という質問があり、安田さんはこう答えました。
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