お金と仕事
五反田の裏名物「TOCビル」 ユニクロ・サンリオ育てた伝説の地
ベンチャー企業の進出が増える五反田。商売人たちの生き様を見守ってきた「TOCビル」の歴史を振り返ります。
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ベンチャー企業の進出が増える五反田。商売人たちの生き様を見守ってきた「TOCビル」の歴史を振り返ります。
五反田に「昭和」の商売人たちの息遣いを伝える場所「TOCビル」があります。TOCは「東京・卸売り・センター」の頭文字。今も、卸売店から小売店まで約400テナントが並びます。実はこのビル、『ユニクロ』でおなじみファーストリテイリング会長兼社長の柳井正氏が、前身の小郡商事時代に故郷、山口県宇部市から通っていたビルでした。「ハローキティ」のサンリオの本社が構えられていたこともあります。最近はベンチャー企業の進出が増える五反田。商売人たちの生き様を見守ってきた「TOCビル」の歴史を振り返ります。(朝日新聞記者・吉野太一郎)
目黒川の水運や国道1号などの陸運に恵まれた五反田は、明治後期から中小の工場が集まる場所でした。
戦後、工場の都心集中を分散させる政策から、1959年に「工場等制限法」が制定され、目黒川沿いの町工場は続々と郊外に移転。跡地には小規模なオフィスビルが建ちました。
そこが2010年代、渋谷の再開発で行き場を失い、狭くても安価なオフィスを求めるベンチャー企業の受け皿になっています。
もともと五反田には、新しい企業を育ててきた「インキュベーター」としての長い歴史があります。
明治期以降に五反田に集まった工場には、星薬科大学の創設者、星一が始めた星製薬がありました。長男でSF作家の星新一は、「米国製の最新式自動装置ができる限り備え付けられた。なにかが沸騰し膨張してでもいるかのように、活気がみなぎっていた」。と、全盛期の様子を伝記小説「人民は弱し 官吏は強し」で描写しています。
戦後、星一は南米に向かう途中ロサンゼルスで客死。経営が傾いていた星製薬は、鉄鋼業を営む大谷米太郎によって会社ごと買収されます。大谷米太郎は、東京五輪のホテル不足対策として「ホテルニューオータニ」を開業させた人物です。
必要とされていたのは、大規模な物流拠点でした。戦後、高度成長期に物価が上昇すると、政府は都内に分散する零細の卸問屋を集約して近代化し、流通コストを削減しようと構想します。この国策を実現しようと動いたのが大谷で、1970年にTOCを開業させました。
しかし、約750台の駐車場や、大型機械も運べるエレベーターなど、先進的な設備をそろえたものの、肝心の卸業界は横並び意識が強く、軒並み移転を渋りました。なりふり構わず、業種にこだわらずに入居テナントを集めた結果、卸問屋も小売店も入居する複合商業ビルになったのです。
現在は卸売店から小売店まで約400テナントが並ぶこのビル。『ユニクロ』でおなじみファーストリテイリング会長兼社長の柳井正氏が、前身の小郡商事時代に山口県から紳士服の仕入れに訪れていたり、ハローキティなどで知られるサンリオも1973~87年に本社や店舗を構えていたりしたことは、あまり知られていない史実です。
「面白いものや情報を求めて世界中から人が集まる情報のマーケット。それが雑居ビルの価値です」と、事業部長の松崎良典さん(65)。
JRの高架をくぐって東口に出ると、そこから東に延びるバス通りは通称「ソニー通り」。約10分ほど歩いた場所は「御殿山」と呼ばれ、ソニーの本社が2007年までありました。
1946年に日本橋で井深大、盛田昭夫両氏らが立ち上げたソニーの前身「東京通信工業」は、翌1947年に御殿山に移転。日本初のテープレコーダーや世界を驚かせたトランジスタラジオなど、時代を変える製品をここで次々と生み出した場所として知られます。
国道1号沿いに建つ「TOCビル」は、茶色い煉瓦模様の壁がそびえ立ち、まるで要塞のようにも見えます。
現在は再開発された大崎に移ったサンリオ。クールジャパンの代名詞ともなった「ハローキティ」が生まれたのは五反田の「TOCビル」時代でした。
世界的企業になった柳井氏が歩いた道を、今は、ベンチャーの若者たちが自転車通勤で通り抜けていきます。
「衣食住」に魅力を感じて移り住んできたベンチャーの起業家たちは、「平成の商売人」として、あらたな五反田の魅力を発掘しているようです。
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