話題
科学者にも否定された「被爆地ルポ」ノーモア・ヒロシマが生まれた日
9月3日は、広島の原爆の惨状が初めて世界に伝えられた日です。英紙記者W・G・バーチェットさんによって打電された情報は、その後の世界的な運動「ノーモア・ヒロシマ」のきっかけになりました。ところが、バーチェットさんの現地ルポは科学者たちによって否定されます。「ノーモア・ヒロシマ」をめぐる歴史をたどります。
バーチェットさんは1945年9月3日、同盟通信の記者の案内で広島の病院などを取材。放射能障害で次々に死者が出ている模様など、外国人記者として初めて現地ルポを打電しました。
この時の情報は、後の「ノーモア・ヒロシマ」の言葉を生み出したとされています。
貴重な情報でしたが、広島から東京に帰ってバーチェットさんは驚きます。
アメリカの科学者たちが「広島で放射能に苦しんでいる者はいない」と発表し、バーチェットさんの記事を否定したのです。科学者たちは、まだ広島を見ていませんでした。
バーチェットさんの手記によると、彼に続いて広島に入った外国の記者たちは、占領軍の監視を受け、原爆の破壊力を賛美する記事を書いたといわれています。
1945年9月18日、GHQは朝日新聞東京本社に2日間の発行停止を命じています。「原爆使用は戦争犯罪」という衆院議員・鳩山一郎の見解を載せたことなどが理由でした。
当時は、軍国主義の清算と民主化促進を名目に、新聞、放送、出版から映画、演劇、紙芝居まで、すべてのメディアがGHQによって統制されていました。なかでも原爆についての報道は厳しく規制されていたのです。
その後、広島の存在を世界に知らせる報道が生まれます。
記事を書いたのはアメリカの月刊誌「ニューヨーカー」の特派員として来日したジョン・ハーシーさんです。
ハーシーさんは1946年5月、アメリカの雑誌「ニューヨーカー」の特派員として来日しました。そして、原爆被爆から約9ヶ月後の広島市内で、6人の被爆前後の体験を取材しました。
その年のニューヨーカー8月号に載ったルポ「ヒロシマ」は全世界に「原爆が人道上許されざる兵器」であることを伝え、世界の100紙以上の新聞に転載されました。
ハーシーさんは、戦後40年の取材のため、1985年4月に再び広島を訪れています。
その時は、原爆ドームのむき出しのコンクリートを見上げながら「破滅を防ぐ力は広島、長崎の惨禍についての人々の記憶だ」と語りました。
そして、原爆慰霊碑に参拝し、「過ちは繰返しませぬから」の碑文に何度もうなずきました。
世界に広島の惨状を伝えたルポ「ヒロシマ」でしたが、日本での出版は困難を極めました。
雑誌「ニューヨーカー」で発表された後の1947年、「ヒロシマ」にも登場する谷本清牧師が翻訳に取り組みます。しかし、出版しようと新聞社や雑誌社など2、30カ所を回りましたが、「GHQ(連合国総司令部)の検閲が厳しい」との理由で断られたのです。
一時は出版を諦めかけましたが、1949年4月、法政大学出版局から谷本牧師らの訳で日本語版「ヒロシマ」が出版されました。
ルポ「ヒロシマ」は、米ニューヨーク大ジャーナリズム学部が主催した「二十世紀の傑出した百の報道」の1位にも選ばれています。
ちなみに2位は、農薬による環境汚染を取り上げた科学者レイチェル・カーソン氏の「沈黙の春」(1962年)、3位は、ウォーターゲート事件に関するワシントン・ポスト紙のボブ・ウッドワード、カール・バーンスタイン両記者の報道(1972-73年)でした。
1/45枚