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科学者にも否定された「被爆地ルポ」ノーモア・ヒロシマが生まれた日

1954年8月、広島市の原爆ドーム(旧商工奨励館)前で、遊覧バスの客に自らのケロイドを見せて被害を説明する吉川清さん
1954年8月、広島市の原爆ドーム(旧商工奨励館)前で、遊覧バスの客に自らのケロイドを見せて被害を説明する吉川清さん 出典: 朝日新聞

目次

 9月3日は、広島の原爆の惨状が初めて世界に伝えられた日です。英紙記者W・G・バーチェットさんによって打電された情報は、その後の世界的な運動「ノーモア・ヒロシマ」のきっかけになりました。ところが、バーチェットさんの現地ルポは科学者たちによって否定されます。「ノーモア・ヒロシマ」をめぐる歴史をたどります。

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広島原爆の惨劇を世界に初めて伝えた人

 バーチェットさんは1945年9月3日、同盟通信の記者の案内で広島の病院などを取材。放射能障害で次々に死者が出ている模様など、外国人記者として初めて現地ルポを打電しました。

 この時の情報は、後の「ノーモア・ヒロシマ」の言葉を生み出したとされています。

 貴重な情報でしたが、広島から東京に帰ってバーチェットさんは驚きます。

 アメリカの科学者たちが「広島で放射能に苦しんでいる者はいない」と発表し、バーチェットさんの記事を否定したのです。科学者たちは、まだ広島を見ていませんでした。

原爆投下直後の爆心地付近。上に原爆ドーム、左の川は元安川=1945年8月
原爆投下直後の爆心地付近。上に原爆ドーム、左の川は元安川=1945年8月 出典: 朝日新聞
英紙記者W・G・バーチェットが原爆投下後の広島に入り、その惨状や放射能による被害を世界に打電した。後に「ノーモア・ヒロシマ」の言葉を生み出したとされる。放射能に関する情報が少ない時代、米国の科学者らから批判された。
2013年9月3日:(1945年のきょう)ノーモア・ヒロシマ:朝日新聞紙面から

厳しく規制された原爆報道

 バーチェットさんの手記によると、彼に続いて広島に入った外国の記者たちは、占領軍の監視を受け、原爆の破壊力を賛美する記事を書いたといわれています。

 1945年9月18日、GHQは朝日新聞東京本社に2日間の発行停止を命じています。「原爆使用は戦争犯罪」という衆院議員・鳩山一郎の見解を載せたことなどが理由でした。

 当時は、軍国主義の清算と民主化促進を名目に、新聞、放送、出版から映画、演劇、紙芝居まで、すべてのメディアがGHQによって統制されていました。なかでも原爆についての報道は厳しく規制されていたのです。

マッカーサー最高司令官が執務室として使っていた部屋=東京・有楽町の第一生命ビル(旧GHQ本部)で
マッカーサー最高司令官が執務室として使っていた部屋=東京・有楽町の第一生命ビル(旧GHQ本部)で 出典: 朝日新聞
戦争が終わり、連合国軍総司令部(GHQ)の占領統治が始まった。日本の言論弾圧法規を撤廃したGHQは、軍国主義の清算と民主化促進を名目に、新聞、放送、出版から映画、演劇、紙芝居まで、すべてのメディアを統制した。なかでも原爆についての報道は、「日本の民主化とは無関係に」(スウェーデン人ジャーナリスト、モニカ・ブラウ)、厳しく規制された。言論・表現の自由をうたった新憲法の規定が現実に意味をもつのは、七年近くの占領が終わったあとだった。
1995年3月11日:占領化 民主化名目に新たな統制(戦後50年 メディアの検証:6):朝日新聞紙面から
英紙記者W・G・バーチェットは九月三日、同盟通信の記者の案内で広島の病院などを取材。放射能障害で次々に死者が出ている模様など、外国人記者として初めて現地ルポを打電した。しかし、東京に帰って彼は驚く。米国の科学者たちが「広島で放射能に苦しんでいる者はいない」と発表、バーチェットの記事を否定したのだ。彼らはまだ広島を見ていなかった。バーチェットの手記によると、彼に続いて広島に入った外国の記者たちは、占領軍の監視を受け、原爆の破壊力を賛美する記事を書いたという。四五年九月十八日、GHQは朝日新聞東京本社に二日間の発行停止を命じた。「原爆使用は戦争犯罪」という衆院議員・鳩山一郎の見解を載せたことなどが理由だった。
1995年3月11日:占領化 民主化名目に新たな統制(戦後50年 メディアの検証:6):朝日新聞紙面から

世界中に転載されたルポ「ヒロシマ」

 その後、広島の存在を世界に知らせる報道が生まれます。

 記事を書いたのはアメリカの月刊誌「ニューヨーカー」の特派員として来日したジョン・ハーシーさんです。

 ハーシーさんは1946年5月、アメリカの雑誌「ニューヨーカー」の特派員として来日しました。そして、原爆被爆から約9ヶ月後の広島市内で、6人の被爆前後の体験を取材しました。

 その年のニューヨーカー8月号に載ったルポ「ヒロシマ」は全世界に「原爆が人道上許されざる兵器」であることを伝え、世界の100紙以上の新聞に転載されました。

ジョン・ハーシーさん=1975年7月1日
ジョン・ハーシーさん=1975年7月1日 出典: 朝日新聞社
ハーシーさんは昭和21年5月、米月刊誌「ニューヨーカー」の特派員として来日。原爆被爆から約9カ月後の広島市内で6人の被爆者の被爆前後の体験を取材した。その年のニューヨーカー8月号に載った「ヒロシマ」は、全世界に「原爆が人道上許されざる兵器」であることを教え、世界の100紙以上の新聞に転載された。
1985年4月24日:破滅防ぐ力は人類の記憶 米のハーシーさん、39年ぶり広島入り:朝日新聞紙面から
この春、37歳の米国人男性も被爆地を訪れた。ニューヨークで暮らす現代芸術家のキャノン・ハーシーさん。原爆投下から間もない広島を取材し、ルポ「ヒロシマ」で惨状を世界に伝えたジョン・ハーシー(93年に78歳で死去)の孫だ。原爆投下から約9カ月後の46年5月に広島に入ったジョンは6人の被爆者にインタビューし、ニューヨーカー誌でルポを発表した。反響は世界に広がり、「ノーモア・ヒロシマ(広島の悲劇を繰り返すな)」と呼ばれる運動の原点にもなった。
2015年4月20日:(核といのちを考える)米国から、被爆地思う旅【大阪】:朝日新聞紙面から

「破滅を防ぐ力は、広島、長崎の惨禍の記憶だ」

 ハーシーさんは、戦後40年の取材のため、1985年4月に再び広島を訪れています。

 その時は、原爆ドームのむき出しのコンクリートを見上げながら「破滅を防ぐ力は広島、長崎の惨禍についての人々の記憶だ」と語りました。

 そして、原爆慰霊碑に参拝し、「過ちは繰返しませぬから」の碑文に何度もうなずきました。

2015年8月15日の広島原爆忌
2015年8月15日の広島原爆忌 出典: 朝日新聞社
ジョン・ハーシーさんが1985年4月23日、39年ぶりに広島を訪れた。「ヒロシマ」の戦後40年を取材のためで、広島平和記念公園の原爆ドームにも足を運び、むき出しのコンクリートを見上げながら「破滅を防ぐ力は、広島、長崎の惨禍についての人類の記憶だ」と語った。今回も「ニューヨーカー」の派遣で、原爆慰霊碑に参拝し、「過ちは繰返しませぬから」の碑文に何度もうなずいていた。
1985年4月24日:破滅防ぐ力は人類の記憶 米のハーシーさん、39年ぶり広島入り:朝日新聞紙面より

一時は日本での出版が危ぶまれた「ヒロシマ」

 世界に広島の惨状を伝えたルポ「ヒロシマ」でしたが、日本での出版は困難を極めました。

 雑誌「ニューヨーカー」で発表された後の1947年、「ヒロシマ」にも登場する谷本清牧師が翻訳に取り組みます。しかし、出版しようと新聞社や雑誌社など2、30カ所を回りましたが、「GHQ(連合国総司令部)の検閲が厳しい」との理由で断られたのです。

 一時は出版を諦めかけましたが、1949年4月、法政大学出版局から谷本牧師らの訳で日本語版「ヒロシマ」が出版されました。

原爆の犠牲者を追悼するため、灯籠流し=2017年8月6日
原爆の犠牲者を追悼するため、灯籠流し=2017年8月6日 出典: 朝日新聞社
昭和22年秋、「ヒロシマ」の主人公の1人として登場した谷本清牧師(76)=広島市西区鈴が峰町=がすでに翻訳に取り組んでいることを知った。さっそく自宅を訪れ、翻訳後の出版をまかせてもらうことにした。が、出版社が見つからない。村松さんは知人の牧師とともに新聞社や雑誌社など2、30カ所を回ったが、「GHQ(連合国軍総司令部)の検閲が厳しい」などの理由で断られた。一時はあきらめかけたが、昭和24年4月、やっと法政大学出版局から谷本牧師らの訳で日本語版「ヒロシマ」が世に出た。
1985年8月12日:ハーシー氏のルポ「ヒロシマその後」 市民運動家らが翻訳を計画:朝日新聞紙面から

「二十世紀の傑出した報道」に

 ルポ「ヒロシマ」は、米ニューヨーク大ジャーナリズム学部が主催した「二十世紀の傑出した百の報道」の1位にも選ばれています。

 ちなみに2位は、農薬による環境汚染を取り上げた科学者レイチェル・カーソン氏の「沈黙の春」(1962年)、3位は、ウォーターゲート事件に関するワシントン・ポスト紙のボブ・ウッドワード、カール・バーンスタイン両記者の報道(1972-73年)でした。

ジョン ハーシー『ヒロシマ 〈増補版〉』(法政大学出版局)
二十世紀のジャーナリズムを代表する報道は、ニューヨーカー誌のジョン・ハーシー記者が一九四六年に報じた原爆投下に関する記事「ヒロシマ」。ニューヨーク大学ジャーナリズム学部は三十六人の審査員が選んだ「今世紀の傑出した百の報道」を公表した。二位は、農薬による環境汚染を取り上げた科学者レイチェル・カーソン氏の「沈黙の春」(六二年)、三位は、ウォーターゲート事件に関するワシントン・ポスト紙のボブ・ウッドワード、カール・バーンスタイン両記者の報道(七二-七三年)だった。
1999年3月2日:原爆報道が1位に 「今世紀の傑出した百の報道」:朝日新聞紙面から

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