感動
日航機事故「零戦パイロット」の村長が、誰よりも願った「空の安全」
8月12日は、乗客・乗員計520人が死亡し4人が重傷を負った日航ジャンボ機墜落事故が起きた日です。1985年から32年。事故現場になった群馬県上野村で、事故の対応から犠牲者の慰霊に心を砕いたのが、2011年に亡くなった元村長の黒沢丈夫氏でした。海軍兵学校出身で零戦のパイロットだった黒沢氏。航空事故防止を誰よりも願った黒沢氏の思いをたどります。
旧海軍の航空隊参謀だった黒沢氏は、戦時中は零戦に搭乗。敵機の銃撃が機体に命中したこともありました。「飛行機が不足で特攻隊員は命じられなかった」といい、終戦を大分で迎えます。
戦争が終わった時には「原子爆弾が使われたこの戦争が、最後の戦争になるんじゃないか。たくさん使うと、人類が滅亡する。国と国との戦争は二度と起こらないだろう。平和が来るはずだ」と思ったそうです。
その後、故郷の上野村に戻ります。
1965年、上野村の村長に就任。林業の村の再興に熱意を傾け、6期目に突入した直後、日航ジャンボ機墜落事故が起きます。
黒沢氏は、事故当日、東京の建設省(当時)に国道整備の陳情のため出張していました。その夜、帰宅すると「羽田発大阪行きの日航機 レーダーから消える」とのテレビニュースの速報字幕が見えたといいます。
「ひょっとして、わが村では……」との疑念を持ちつつも、墜落地点が不確かなまま一夜を過ごしました。翌朝早朝、彼の直感が的中したことに気づかされます。
その時、よみがえったのが戦争中の記憶でした。
「教官として学生の飛行訓練機に搭乗、別の機体とぶつかり、約20メートル下の芝生に墜落した経験がある。瞬時に落ち、考える間もなかったが、手足を骨折した。体験と重ね合わせると、犠牲者に対する同情の気持ちが深まった」
実は、海軍初の特攻隊として飛びたった零戦は、もともと黒沢氏の部隊の機体でした。
零戦16機を率いる海軍の第381航空隊飛行隊長だった黒沢氏は、昭和19年10月、フィリピンのクラーク飛行場で、第1航空艦隊司令長官の大西滝治郎中将から特攻作戦の存在を聞かされます。
「零戦に爆弾を積んで、敵の航空母艦に体当たりする。いずれは、君のところからも特攻隊を出してもらうが、今回は別の隊に実行してもらう。飛行機を彼らに渡してほしい」
「別の隊」の指揮官だったのが、海軍兵学校の後輩である関行男大尉でした。
「なぜ、あんなばかなことをしたんだ」
朝日新聞の取材に人間を品物として扱う戦争の非情さへの怒りを語っていた黒沢氏。
そんな黒沢氏にとって日航ジャンボ機墜落事故は、人ごととは思えませんでした。
1992年4月2日の朝日新聞記事では、日航ジャンボ機墜落事故について次のように語っています。
「あの迷走の30分、死を覚悟しながら、彼らは一体何を考えていたのだろう」
慰霊への取り組みは困難の連続でした。
納骨堂の建設や慰霊碑の建立、尾根につながる登山道の整備などで巨額の資金がかかることが判明。その額は12億円と見込まれました。当時の村の一般会計当初予算である13億円に匹敵する額でした。
黒沢氏は、国などに働きかけるため上京。その時、日航の社長から10億円の提供を切り出され、村に集まっていた見舞金などを合わせて費用を工面しました。
また、慰霊事業が宗教行為になることから、村の事業としてはできないことに。
そのため、財団法人「慰霊の園」を設立し、自らが理事長となって墜落現場の「御巣鷹の尾根」に「昇魂之碑」を建立するなど、慰霊事業の土台を整えました。
連続10期、村長をつとめた黒沢氏が、事故と向き合った中で一番つらかった場面があります。
1995年8月10日の朝日新聞記事で「一番つらかったのは、身元の分からない遺体の葬送の任を、村が果たさなければならないと知った時でした」と話しています。
多くの遺体を前に、県医師会や県歯科医師会などが身元の確認にあたりました。しかし、懸命な努力にもかかわらず、確認できなかった部分遺体が残り、123の骨壷(つぼ)が村に引き渡されました。
事故から9年の慰霊祭で黒沢さんは、記憶の風化について語っていました。
「このような事故は、月日がたつとともに、心の中からその悲しみが悲惨さが遠ざかっていき、だんだんとお参りする人も少なくなるというような傾向をたどりがちですが、私たちはそういうことにならないように努めなければならないと考え、自戒し、かつ多くの方々にお願いしております」
あいさつは、最後、次の言葉で結ばれました。
「霊よ、ねがわくば、私たちとともに上野村の天地に抱かれ安らけく眠られ、天界より、ご遺族を加護されるとともに、人類を導いて航空安全の道を開かせたまえ」
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