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感動

日航機事故「零戦パイロット」の村長が、誰よりも願った「空の安全」

群馬県上野村の村長をつとめた黒沢丈夫氏=1993年7月15日
群馬県上野村の村長をつとめた黒沢丈夫氏=1993年7月15日 出典: 朝日新聞

目次

 8月12日は、乗客・乗員計520人が死亡し4人が重傷を負った日航ジャンボ機墜落事故が起きた日です。1985年から32年。事故現場になった群馬県上野村で、事故の対応から犠牲者の慰霊に心を砕いたのが、2011年に亡くなった元村長の黒沢丈夫氏でした。海軍兵学校出身で零戦のパイロットだった黒沢氏。航空事故防止を誰よりも願った黒沢氏の思いをたどります。

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「飛行機が不足で特攻隊員は命じられなかった」

 旧海軍の航空隊参謀だった黒沢氏は、戦時中は零戦に搭乗。敵機の銃撃が機体に命中したこともありました。「飛行機が不足で特攻隊員は命じられなかった」といい、終戦を大分で迎えます。

 戦争が終わった時には「原子爆弾が使われたこの戦争が、最後の戦争になるんじゃないか。たくさん使うと、人類が滅亡する。国と国との戦争は二度と起こらないだろう。平和が来るはずだ」と思ったそうです。

 その後、故郷の上野村に戻ります。

米軍艦船へ体当たり攻撃に出撃する海軍特攻機、1945年撮影
米軍艦船へ体当たり攻撃に出撃する海軍特攻機、1945年撮影 出典: 朝日新聞
<日航ジャンボ機墜落事故> 1985年8月12日午後6時56分ごろ、羽田発大阪行き日本航空123便(ボーイング747SR型)が群馬県上野村の御巣鷹(おすたか)の尾根に墜落。乗客・乗員520人が死亡し、4人が重傷を負った。事故調査報告書によると、78年のしりもち事故の修理ミスが原因で上空で圧力隔壁が損壊し、機体尾部が吹き飛んで操縦不能となった。単独機の事故による死者数は現在も世界最多。回収された機体の一部や見つかった遺書が、羽田空港近くの日航安全啓発センターで展示されている。
2015年8月8日:(御巣鷹と歩む:上)父の「遺書」生きる力に:朝日新聞紙面から
黒沢 丈夫さん(くろさわ・たけお=元群馬県上野村長、元全国町村会長)22日、肺炎で死去、97歳。葬儀は近親者のみで行う。村との合同葬は来年1月22日午後2時から上野村楢原113の上野中学校体育館で。喪主は長男慎輔さん。1965年から40年間村長。85年の日航ジャンボ機墜落事故では現場の村長として捜索や慰霊に尽力した。
2011年12月24日:黒沢丈夫さん死去:朝日新聞紙面から
旧海軍の航空隊参謀だった。終戦を大分で迎えた。戦後すぐ、前橋海軍人事部に異動となった。「原子爆弾が使われたこの戦争が、最後の戦争になるんじゃないか。たくさん使うと、人類が滅亡する。国と国との戦争は二度と起こらないだろう。平和が来るはずだ」黒沢はそう考えた。しかし、現実はその通りにならなかった。米ソの冷戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争。世界の各地で、次々と戦争や紛争が起こった。終戦の年の春に父が死亡、2人の弟も戦死した。上野村の実家には母と妹が残された。感受性の強い青年期、「時代の先端を行く」と思えた海軍で過ごし、不便な村に帰ることに抵抗があった。
2005年6月30日:(戦後 わたしたちの歩み:7)前上野村長・黒沢丈夫 今こそ心の文明探求を/群馬県:朝日新聞紙面から
元海軍軍人。遠洋航海で訪れた米国で彼我の国力の違いを思い知らされた。戦時中は零戦に搭乗。敵機の銃撃が機体に命中したこともあった。「飛行機が不足で特攻隊員は命じられなかった」と言う。
2005年6月14日:(ひと)黒沢丈夫さん 日航機が墜落した上野村の村長を40年間務めた:朝日新聞紙面から

「ひょっとして、わが村では……」

 1965年、上野村の村長に就任。林業の村の再興に熱意を傾け、6期目に突入した直後、日航ジャンボ機墜落事故が起きます。

 黒沢氏は、事故当日、東京の建設省(当時)に国道整備の陳情のため出張していました。その夜、帰宅すると「羽田発大阪行きの日航機 レーダーから消える」とのテレビニュースの速報字幕が見えたといいます。

 「ひょっとして、わが村では……」との疑念を持ちつつも、墜落地点が不確かなまま一夜を過ごしました。翌朝早朝、彼の直感が的中したことに気づかされます。

 その時、よみがえったのが戦争中の記憶でした。

 「教官として学生の飛行訓練機に搭乗、別の機体とぶつかり、約20メートル下の芝生に墜落した経験がある。瞬時に落ち、考える間もなかったが、手足を骨折した。体験と重ね合わせると、犠牲者に対する同情の気持ちが深まった」

日本航空123便ジャンボ機(ボーイング747SR)の墜落現場を捜索する救助隊
日本航空123便ジャンボ機(ボーイング747SR)の墜落現場を捜索する救助隊
同年8月12日。黒沢は東京の建設省(当時)に国道整備の陳情に出向いた。午後7時過ぎ、帰宅すると、孫たちが見ていたテレビニュースの速報の字幕が見えた。「羽田発大阪行きの日航機 レーダーから消える」
2010年8月18日:(日航機墜落 上野村の24時間:上)夜明け待ち、現場めざす/群馬県:朝日新聞紙面から
事故を知ったのは12日夜のニュース速報。「ひょっとして、わが村では……」の直感。村役場幹部と連絡をとりながら、眠れない夜をすごした。翌朝のテレビニュースに現場付近のカラマツ林が映った。「あの木の大きさだと現場はツゲノ沢の奥だ。植林して20年たつカラマツはあそこしかない」。直感は的中した。
1985年8月16日:黒沢丈夫さん 日航機墜落、捜索活動を陰で支える上野村村長(ひと):朝日新聞紙面から
黒沢さん自身、海軍の飛行機乗りだった。教官として学生の飛行訓練機に搭乗、別の機体とぶつかり、約20メートル下の芝生に墜落した経験がある。瞬時に落ち、考える間もなかったが、手足を骨折した。体験と重ね合わせると、犠牲者に対する同情の気持ちが深まった。
2004年8月11日:「御巣鷹」見守り19年 上野村・黒沢村長90歳、今期で引退へ:朝日新聞紙面から

「なぜ、あんなばかなことをしたんだ」

 実は、海軍初の特攻隊として飛びたった零戦は、もともと黒沢氏の部隊の機体でした。

 零戦16機を率いる海軍の第381航空隊飛行隊長だった黒沢氏は、昭和19年10月、フィリピンのクラーク飛行場で、第1航空艦隊司令長官の大西滝治郎中将から特攻作戦の存在を聞かされます。

 「零戦に爆弾を積んで、敵の航空母艦に体当たりする。いずれは、君のところからも特攻隊を出してもらうが、今回は別の隊に実行してもらう。飛行機を彼らに渡してほしい」

 「別の隊」の指揮官だったのが、海軍兵学校の後輩である関行男大尉でした。

 「なぜ、あんなばかなことをしたんだ」

 朝日新聞の取材に人間を品物として扱う戦争の非情さへの怒りを語っていた黒沢氏。

 そんな黒沢氏にとって日航ジャンボ機墜落事故は、人ごととは思えませんでした。

 1992年4月2日の朝日新聞記事では、日航ジャンボ機墜落事故について次のように語っています。

 「あの迷走の30分、死を覚悟しながら、彼らは一体何を考えていたのだろう」

墜落した翌朝に撮影された日本航空ジャンボ機の主翼が散らばる無残な現場
墜落した翌朝に撮影された日本航空ジャンボ機の主翼が散らばる無残な現場
出典: 朝日新聞
昭和19年10月、黒沢丈夫は海軍の第381航空隊飛行隊長だった。零戦16機を率いてボルネオからフィリピンのクラーク飛行場に向かった。着いたころは、西の空が夕日で真っ赤に染まっていた。到着して間もなく、第1航空艦隊司令長官の大西滝治郎中将に呼び出された。
1992年4月2日:死出の旅 黒沢丈夫さん:3(それから):朝日新聞紙面から
「零戦に爆弾を積んで、敵の航空母艦に体当たりする。いずれは、君のところからも特攻隊を出してもらうが、今回は別の隊に実行してもらう。飛行機を彼らに渡してほしい」海軍兵学校の後輩である関行男大尉が、特攻隊指揮官だった。
1992年4月2日:死出の旅 黒沢丈夫さん:3(それから):朝日新聞紙面から
「なぜ、あんなばかなことをしたんだ」。人間を品物として扱う戦争の非情さに、今でも怒りを覚える。青春を飛行機とともに過ごした。その飛行機は仲間を死地へ運んでいく道具でもあった。日航機事故は、人ごととは思えなかった。「あの迷走の30分、死を覚悟しながら、彼らは一体何を考えていたのだろう」。特攻隊員と事故の犠牲者の姿が重なり合う。
1992年4月2日:死出の旅 黒沢丈夫さん:3(それから):朝日新聞紙面から

財団法人「慰霊の園」を設立

 慰霊への取り組みは困難の連続でした。

 納骨堂の建設や慰霊碑の建立、尾根につながる登山道の整備などで巨額の資金がかかることが判明。その額は12億円と見込まれました。当時の村の一般会計当初予算である13億円に匹敵する額でした。

 黒沢氏は、国などに働きかけるため上京。その時、日航の社長から10億円の提供を切り出され、村に集まっていた見舞金などを合わせて費用を工面しました。

 また、慰霊事業が宗教行為になることから、村の事業としてはできないことに。

 そのため、財団法人「慰霊の園」を設立し、自らが理事長となって墜落現場の「御巣鷹の尾根」に「昇魂之碑」を建立するなど、慰霊事業の土台を整えました。

日航機墜落事故追悼7周年の慰霊式典で手を合わせる遺族たち
日航機墜落事故追悼7周年の慰霊式典で手を合わせる遺族たち 出典: 朝日新聞
納骨堂の建設や慰霊碑の建立、尾根につながる登山道の整備問題などが、村の責任としてにわかに大きくのしかかってきた。「大ざっぱに費用をはじいてくれ」と指示した黒沢村長に、職員が答えた。「十二億円ほどでしょうか」。この年の村の一般会計当初予算(十三億二千二百六十万円)に匹敵する額だった。来年度の政府予算編成が大詰めを迎えた十二月下旬、黒沢村長は山村振興特別対策事業費の復活などを陳情するために上京した。その夜に会った日本航空の山地進社長(現会長)から、こう切り出された。「十億円で何とかなりませんか」村にはすでに約四千万円の見舞金が集まっていた。「不足は募金で何とかなる。資金のめどはついた」。村長はほっと一息ついた。
1995年8月10日:慰霊の村(それからの上野村 日航機墜落事故から十年:上)/群馬:朝日新聞紙面から
「慰霊の園」を設立することにしたのは、事業が宗教行為となり、地方自治体のままでは法律上問題があるため。
1986年1月21日:8月3日に日航機事故一周忌慰霊祭:朝日新聞紙面から
日航ジャンボ機が墜落した群馬県・上野村で21日、財団法人「慰霊の園」(理事長・黒沢丈夫上野村長)の第2回理事会が開かれ、墜落現場の「御巣鷹の尾根」に建立する「昇魂之碑」の除幕式を8月1日に催すことを決めた。場所が急斜面であることなどから、村や遺族の代表ら10人程度で実施する予定。
1986年6月22日:日航ジャンボ機墜落現場に「昇魂」碑 8月1日に除幕:朝日新聞紙面から

「人類を導いて航空安全の道を開かせたまえ」

 連続10期、村長をつとめた黒沢氏が、事故と向き合った中で一番つらかった場面があります。

 1995年8月10日の朝日新聞記事で「一番つらかったのは、身元の分からない遺体の葬送の任を、村が果たさなければならないと知った時でした」と話しています。

 多くの遺体を前に、県医師会や県歯科医師会などが身元の確認にあたりました。しかし、懸命な努力にもかかわらず、確認できなかった部分遺体が残り、123の骨壷(つぼ)が村に引き渡されました。

 事故から9年の慰霊祭で黒沢さんは、記憶の風化について語っていました。

 「このような事故は、月日がたつとともに、心の中からその悲しみが悲惨さが遠ざかっていき、だんだんとお参りする人も少なくなるというような傾向をたどりがちですが、私たちはそういうことにならないように努めなければならないと考え、自戒し、かつ多くの方々にお願いしております」

 あいさつは、最後、次の言葉で結ばれました。

 「霊よ、ねがわくば、私たちとともに上野村の天地に抱かれ安らけく眠られ、天界より、ご遺族を加護されるとともに、人類を導いて航空安全の道を開かせたまえ」

犠牲となった520人の名前が書かれた銘板を見つめる女性=2015年8月12日
犠牲となった520人の名前が書かれた銘板を見つめる女性=2015年8月12日 出典: 朝日新聞
「一番つらかったのは、身元の分からない遺体の葬送の任を、村が果たさなければならないと知った時でした」上野村役場の村長室で、黒沢村長は、昨日のできごとのように話し始めた。県医師会や県歯科医師会などの努力にもかかわらず、身元が確認できなかった部分遺体が残り、百二十三の骨壷(つぼ)が村に引き渡された。
1995年8月10日:慰霊の村(それからの上野村 日航機墜落事故から十年:上)/群馬:朝日新聞紙面から
このような事故は、月日がたつとともに、心の中からその悲しみが悲惨さが遠ざかっていき、だんだんとお参りする人も少なくなるというような傾向をたどりがちですが、私たちはそういうことにならないように努めなければならないと考え、自戒し、かつ多くの方々にお願いしております。霊よ、ねがわくば、私たちとともに上野村の天地に抱かれ安らけく眠られ、天界より、ご遺族を加護されるとともに、人類を導いて航空安全の道を開かせたまえ。
1994年8月22日:上野村村長・黒沢丈夫さん(ことば抄):朝日新聞紙面から

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