MENU CLOSE

エンタメ

マリリン・モンロー、今も残る死の謎 新婚旅行で原爆資料館にも…

カンヌ映画際で飾られたマリリン・モンローのポスター=2012年、ロイター
カンヌ映画際で飾られたマリリン・モンローのポスター=2012年、ロイター

目次

 8月5日はマリリン・モンローが亡くなった日です。睡眠薬を大量に飲み36歳の人生を終えました。自殺か事故死か、今も謎が残るといわれる死因。ハリウッドスターの華やかなイメージと、結婚と離婚を繰り返した複雑なプライベートの一面。そんなモンローは、ジョー・ディマジオとの新婚旅行で来日した際、広島の原爆資料館を訪れていました。

【PR】手話ってすごい!小学生のころの原体験から大学生で手話通訳士に合格

孤児院からスターへ

1926年、ロサンゼルスで生まれたモンローは、孤児院で過ごしながら1945年、モデルを始めます。

その後、1952年に「ノックは無用」で初の主役を射止め、1953年に「紳士は金髪がお好き」がヒットします。

1954年には元ヤンキースの四番打者ジョー・ディマジオと結婚。まさにジェットコースターのような人生です。

アンディー・ウォーホールのマリリン・モンロー 2017年2月10日
アンディー・ウォーホールのマリリン・モンロー 2017年2月10日 出典: ロイター通信
1926年:ロサンゼルスで生まれる
1935年:孤児院に。2年間
1942年:高校中退。16歳で結婚
1945年:モデルを始める
1946年:最初の離婚
1949年:ヌードモデルに
1952年:「ノックは無用」で初の主役
1953年:「紳士は金髪がお好き」がヒット
1954年:ディマジオと結婚、離婚
1999年2月7日:マリリン・モンロー(100人の20世紀:56):朝日新聞紙面から

広島で「ため息をくり返した」

 広島を訪れたのは、ディマジオとの新婚旅行の時でした。

 朝鮮戦争の兵士慰問の間をぬって、原爆ドームを訪れています。

「原爆記念館」(いまの平和記念資料館)を回り、その悲惨さに「ため息をくり返した」と、地元紙が記録しています。

 二人はさらに、近くの比治山に設けられた日米合同の放射線影響研究所を訪れ、説明を受けたと伝えられています。

 その後、東京・帝国ホテルで足を組みながら記者会見にのぞんだ姿とは別人のようなエピソードです。

 モンローは「頭の弱いセクシー女」を演じていたとも言われています。実際は向上心が強く、人気絶頂の時にハリウッドを去り、ニューヨークの俳優学校に通っています。

夕暮れの原爆ドーム 2015年8月5日撮影
夕暮れの原爆ドーム 2015年8月5日撮影 出典: ロイター通信
モンローは広島に来ている。五四年二月、ディマジオとの新婚旅行の際、朝鮮戦争の兵士慰問の間をぬって、原爆ドームを訪れた。「原爆記念館」(いまの平和記念資料館)も回って、悲惨さに「ため息をくり返した」と、地元紙が小さく記録している。二人はさらに、近くの比治山に設けられた日米合同の放射線影響研究所を訪れ、説明を受けた。
1997年8月16日:マリリン・モンロー 劣等感がナゾの死招く(この人に再会:16):朝日新聞紙面から
東京・帝国ホテルで高々と足を組んでみせ、シャネルの五番論議(「何を着て寝るの?」「シャネルの五番よ」)さながら記者達を悩殺した姿とは別人である。「頭の弱いセクシー女」を演じたが、そうではなかった。向上心が強く、人気絶頂の時にハリウッドを去り、ニューヨークの俳優学校に通ったりした。
1997年8月16日:マリリン・モンロー 劣等感がナゾの死招く(この人に再会:16):朝日新聞紙面から

根強い「他殺説」

 モンローの死因をめぐっては今も謎があるという声が根強く残っています。

 「女神--マリリン・モンローの秘密の人生」を出版したイギリスのノンフィクション作家アンソニー・サマーズ氏は、ケネディ兄弟との仲について言及しています。

 兄の大統領がモンローと親密な関係にあり、続いて、その関係を終わらようとした弟ロバート(司法長官)も親密な関係になったという説を展開。さらに、その関係をマフィアのボスがかぎつけ、司法省のマフィア撲滅作戦に対抗して何度も脅しに使いそうになった……。

 そんな「他殺説」に対し、ロス地検は死亡20周年の1982年に再捜査をし、改めて「他殺の疑いはなし。自殺ないし事故死」との結論を発表するほどでした。

ケネディ大統領の誕生会での着用ドレス 
ケネディ大統領の誕生会での着用ドレス  出典: ロイター通信
今回、モンローの霊を呼びさましたのは、ニューヨークのマクミラン出版社から出された「女神--マリリン・モンローの秘密の人生」と題する本。著者は、ジャーナリスト出身の英ノンフィクション作家アンソニー・サマーズ氏である。1人のスターについて、これほど多くの本が書かれた例はない。引用の価値あり、とされる著書だけで40冊近い。80年代に入っても、サマーズ氏の新刊で8冊目だ。それだけに「女神」のカバーは「最後の銀幕スターに関する最後の伝記」とうたい、これが決定版の意気込みをうかがわせる。
1985年11月6日:モンローの死のなぞ R・ケネディ別れ話説も浮上(追跡):朝日新聞紙面から
サマーズ氏の関心は、他殺説ではなく、モンローとケネディ兄弟との仲にある。多くの知人、関係者の証言から、まず兄の大統領がモンローと親密な関係にあり、続いて、その関係を終わらせる使者役の弟ロバート(司法長官)も親密な関係になったことを明らかにしようとする。さらに、その関係をマフィアのボスがかぎつけ、司法省のマフィア撲滅作戦に対抗して何度も脅しに使いそうになったこと、などを証拠によって立証しようとする。
1985年11月6日:モンローの死のなぞ R・ケネディ別れ話説も浮上(追跡):朝日新聞紙面から
他殺説は一貫してくすぶり続けてきた。あまりの根強さに、ロス地検は死亡20周年の82年に再捜査し、改めて「他殺の疑いはなし。自殺ないし事故死」との結論を発表したほど。それでもなお煙は消えず、ロス市警もこのほど膨大な捜査資料の一部を公表、「自殺説」の証拠を国民に示すことまでした。
1985年11月6日:モンローの死のなぞ R・ケネディ別れ話説も浮上(追跡):朝日新聞紙面から

関連記事

PICKUP PR

PR記事

新着記事

CLOSE

Q 取材リクエストする

取材にご協力頂ける場合はメールアドレスをご記入ください
編集部からご連絡させていただくことがございます