話題
「振り付けできなくて、歯を全部抜いたの」ギリヤーク尼ヶ崎の半世紀
伝説の大道芸人ギリヤーク尼ケ崎の「鬼の踊り」を「祈りの踊り」へ変えた転機とは。神々しさと狂気をまとった路上の求道者の素顔に迫るロングインタビュー。
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伝説の大道芸人ギリヤーク尼ケ崎の「鬼の踊り」を「祈りの踊り」へ変えた転機とは。神々しさと狂気をまとった路上の求道者の素顔に迫るロングインタビュー。
病身を顧みず一心不乱に舞い、踊りのためには歯を抜くことさえいとわない。伝説の大道芸人ギリヤーク尼ケ崎さんの「鬼の踊り」を「祈りの踊り」へと変えた転機とは。来年、街頭公演50周年を迎えるギリヤークさんが、亡き母、妹、そして震災やテロ犠牲者への思いを語りました。
――代表作の「念仏じょんがら」はどのようにして生まれたのでしょうか。
「念仏じょんがら」は、25歳で亡くなった妹のためにつくった演目。妹はひとつの時に脳膜炎(髄膜炎)にかかって、命は助かったけど脳に障害が残りました。おばあさんになついていて、亡くなった時は、意味もわからず「ババちゃんのところに行きたい」とよく言っていた。
その妹が亡くなる間際に、母が「ババちゃんのところに行くか?」と聞いたの。そうしたら「嫌だ」って2回首を振って。寿命が尽きる寸前に、死ぬことの意味がわかったんだろうね。
いつか妹を供養する舞をつくりたいと思いながら、完成までに10年以上かかりました。1978年にニューヨーク公演に行く前、なかなか振り付けができなくて、歯を全部抜いたの。
――踊りのために歯を全部抜いてしまうとは、尋常ではないです。
お菓子屋の息子で、もともと虫歯も多かったし。歯医者さんに「いっぺんに抜いたら気絶して倒れる」と言われたから、2週間掛かって抜いたよ。鏡に映ったおばあさんのような顔を見て、すぐに踊りが浮かびました。
ニューヨークでは老婆の姿で踊って、終わったら入れ歯を入れて「ジ・エンド」とあいさつしてね。そうしたら、これが受けたの。妹のためにつくった「念仏じょんがら」が、ニューヨークで完成した。総入れ歯にしてよかったよ。
――ニューヨークへの渡航費用はお母様が用立てたそうですね。
郵便局の保険を解約して旅費をつくってくれたの。あの時、母さんがお金を出してくれなかったら、「念仏じょんがら」は幻になっていたかもしれない。当時は東京の世田谷で母さんと一緒に暮らしてました。
昔、病院で清掃の仕事をしていた頃に、ボーナスが入ったから母に反物を買ってあげたの。渋谷の東急デパートで8千円ぐらいだったかな。その時に、ハチ公前の方を指さして、「母さん、僕ここで踊ったんだよ」って言ったら、ガックリしてた。はあ~とため息をついてね。
街頭じゃなくて舞台やホールで踊っていると思っていたんじゃない? まさか投げ銭をもらっているなんて、考えもしなかったんでしょう。何も言えなくなっちゃった。いまでも、その時のことが引っ掛かってます。僕の大道芸の原点ですね。
――とはいえ、お母様も内心ではギリヤークさんのことを応援していたのでは。
『鬼の踊り』(ブロンズ社)という自伝を出した時、母さんに「本ができたよ」と報告したの。そうしたら、よりによってヌードで踊っているページを開いちゃって(笑)。印税も入ったし喜んでもらいたかったんだけど、そんな話ふっとんじゃった。
投げ銭を数えてるところを見つかって、慌てて隠したこともありますよ。ハチ公前の思い出もあって、正直に「大道芸をやってるんだよ」とは恥ずかしくて言えなかった。「お母さんを街頭に連れてきてあげたら」と言ってくれる人もいたけど、生きている間に踊りを見せたことは一度もなかった。かたくなでしたねえ。
母さんは82歳で亡くなりました。くも膜下出血の延命治療の末に、意識不明の状態になって。僕はどうしても外せない公演で北海道にいて、死に目に会うことができなかった。北海道の空は東京よりも澄んでいて、いつも帰って来る度に空を見上げて「頑張るぞ」とやる気を出すの。でもこの時ばかりは、抜けるような空の青さが悲しみの色に感じたね。
――「念仏じょんがら」の最後に「母さん!」と叫ぶ場面があります。どんな思いで踊っているのでしょうか。
あの最後の「母さん!」のために、全部の演目を踊っているんじゃないかという気がする。「念仏じょんがら」は妹の供養のためにつくった舞だけど、母さんのための作品でもあるから。
母さんが亡くなってからは「大道芸っていいものなんだよ。僕、命がけで頑張ってきたんだよ」という思いで踊ってる。天国の母さんに「勝見ちゃん、頑張ってるね」「ちゃんと踊ってるね」って一言でいいから言ってほしくてね。
――阪神大震災、米同時多発テロ、東日本大震災など、各地で精力的に鎮魂の舞を踊ってきました。
もともとは「鬼の踊り」と呼ばれてたの。洋画家の林武さんの自宅に呼ばれて踊った時に、「君のは鬼の踊りだね」と言われたのが最初。その時はほめられているのか、クサされているのかわからなかったんだけど。
その「鬼の踊り」が「祈りの踊り」へ変わっていくキッカケになったのが、阪神大震災でした。発生から1カ月後に神戸の方から「供養の踊りをしないか」と声を掛けられて。地元の人に聞くと、半分は「いま来てもらっても余裕がない」と言い、もう半分は「こんな時だからこそ来てほしい」と言う。やる方に賭け、大阪からバスを乗り継いで神戸入りしました。
その時、1箇所だけ間違えてしまったの。自分なりの自負をもって供養の踊りを踊ったつもりだったけど、亡くなった方々の「供養なんかいらない。もっと生きたかった」という思いが胸に突き刺さってきてね。僕の未熟な踊りよりも、亡くなった人の悲しみの方が深かったんだと思う。
――そこから、どのようにして「祈りの踊り」を深めていったのですか。
9・11のテロの後、ニューヨークのグラウンド・ゼロに行きました。1978年に「念仏じょんがら」を踊った運命の場所が、ああいうことになってしまった。僕は直前までグズグズ迷ってたの。下手したらまたテロが起きるかもしれない、殺されたらどうしよう、なんて。
その時に後押ししてくれたのが、神戸で亡くなった人たちの声。「ギリヤークさん、踊ってあげなさいよ」と励ましてくれた気がしたの。震災から7年も経ってね。そこから、ハラを決めて踊りました。
――最近は体調が思わしくないそうですね。
2年前ぐらいから調子が悪くてね。一度、京都で倒れてしまって。パーキンソン病で手は震えるし、脊柱管狭窄症で腰は痛むし。ふたつの症状が体のなかで入り乱れてる。震えだけじゃなくて、身体が硬直することもあります。心臓にもペースメーカーが入っているし、全身ボロボロですよ。
5月20日に横浜で公演したんだけど、調子も悪いし本当は断るつもりでいたの。でも、日にちが近づくに連れて、「やるしかない」と体が上向いていくんだね。本番はコルセットをつけて踊りました。カンパも20万円ぐらいあったんじゃないかな。みんな、よくあの調子で踊れるもんだと驚いてたよ。
――来年、街頭公演50周年を迎えます。
来年10月、新宿で50周年公演をやります。それで終わりではなくて、最後の締めに別の場所でもう一度踊りたい。心に決めているところがあるけど、場所は秘密です。大道芸人らしく、最後まで街頭でやりたいね。
――今後の抱負は。
年のいった浄瑠璃の名人で、すごい人を見たことがあるの。ただそこに存在しながら、スッと人形を動かす。霊気が漂ってたよ。一生に一度でも、そういう霊気の漂う踊りを踊ってみたい。いまでもまだ追いつけないわ。
それから年齢と関係なく、華のある芸人でいたい。色っぽく、艶っぽく。僕の目標は出雲阿国さん。阿国さんのために捧げる踊りをつくったこともあるの。伝説のような面もあるけど、精神的な意味で弟子のひとりだと思ってるから。
華っていうのは若い頃のキレイな華もあるけど、枯れるってことも大事なんだよ。本当の意味で枯れるっていうことを、僕はまだ体験してないんだなあ。年をとってシワが寄っても色気のある人もいるでしょ。そういう色気がこれからの課題。「死の際」を感じとっていかないと。骨と皮ばっかりの身体だけどね。
いまだに「これは」と思える境地に至ったことがない。まだ深まる。深めなきゃダメだと思ってますよ。
〈ギリヤーク・あまがさき〉 本名・尼ヶ崎勝見。1930年、北海道・函館生まれ。1968年から全国の街頭で踊り続けている。著書に『鬼の踊り 大道芸人の記録』(ブロンズ社)、『ギリヤーク尼ヶ崎 「鬼の踊り」から「祈りの踊り」へ』(北海道新聞社)など。記録映画「祈りの踊り」「平和の踊り」では、製作・監督・主演を務めている。
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